その二
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食卓、少女と少年はテーブルを挟んで向かい合い――いや厳密に言えば向い合っては居ないのだが、対面に位置していた。エレンはと言えば台所で、先程から調理を進めている。鍋から登る湯気の暖気と食欲をそそる香りが室内に広がる。
「なあ、リィゼロッテ……何が気に食わなかったのか知らないが、謝るから僕の事を許してくれないか?」
「何が悪かったか解ってないのに謝られても腹が立つだけよ」
それは悪いと思っていないのと一緒で、そんな状態で謝罪の言葉を口にされても、そんなのは謝っていないのと同じだと少女は思う。
「……むぅ、すまない」
「……だから謝るなっての」
簡単に謝るなんてことは、するべきじゃないと少女は思う。それは謝るという事自体の意味を弱める行為だと思うからだ。
「……むぅ、ううむ」
低く唸りながら、ちらちらとすがるように、少女を見る少年。その視線に苛立ちを募らせて少女はテーブルに手を叩きつけて乗り出した。
「ああああああ! もううるさい!」
「別にうるさくなんかしてないだろう……」
「うるさい! 黙ってても顔がうるさいのよ!」
顔がうるさいというのは暴論ではあるが、確かに少年の視線は言葉よりも多くを訴えるような物であった。サディスティックな人間であれば、嗜虐心を煽る表情なのだろうが、少女はそのような趣向を持ちあわせては居ない。
「……リィゼロッテは無茶を言う」
少し不貞腐れたように言う少年。
「あーもう……面倒だわ――ていっ!」
びしり、と指の先で弾くように少年の額に一撃――デコピンを思い切りお見舞いした。
「むぅ……痛いじゃないか、リィゼロッテ」
「これで、おあいこ。気味が悪いからもうやめて」
償うということは、何かをしてしまった人間が、与えてしまった損失と同じだけの辛さを味わうことではない。損失を埋めうる爽快感を提供する事だ。その点デコピン程度では釣り合いがきかないが、まあ今回に限り許してあげることにする。
このままあの視線を向けられていては、せっかくの食事が不味くなってしまうからだ。損失の上塗りなど御免こうむる。
そうだ食事だ、こんな事よりも今は食事のことを考えよう、と少女は思った。
助けてもらった上に食事まで振舞ってもらっては悪いと思ったが、エレンから夕飯の献立が野兎と香草のシチューであること聞いた途端、少女はその考えを撤回した。シチューと聞いて断ることなど、彼女にとっては無理に等しい。
どれだけシチューが好きなのか言語化する事に意味は無いが、あえてするとすればシチューと聞けば空腹になり、シチューと聞けば唾液が分泌する。その程度には少女はシチューを愛していた。
「お待たせしたのナー」
頃合いよくエレンは器を持って現れた。
木製の盆からテーブルに順に並べていく。食器同士がぶつかり合うカチャリ、カチャリという音すらも胸を弾ませた。それぞれ自分の前にシチューの器、別で取り皿を置く。テーブルの中心にはパンとサラダが用意され、これは各々好き好きにといったところだ。
問題のシチューについてだが、まず香りが良い。香草をふんだんに使っているのだろう。そして次に、具だくさんだ。野兎の肉を始めとして、茸や芋などがごろごろと入っている。最後に、この上なく少女のシチュー好きとしての勘が、このシチューの味を保証している。
まさに主菜と呼ぶにふさわしい一皿だ。
「――ん?」
そんなシチューを前にして浮き足立つ少女の目を少年の前の皿が奪う。
「なんだリィゼロッテ、僕から奪わなくてもシチューのおかわりは十分あると思うぞ」
少年は自分のシチューを守るように手で覆った。
「失礼ね、そんなに食い意地張ってないわよ――」
むっとしながら少女は答える。断じて、自分の物にせしめんとしたわけではない。少年の皿の中身が気になったのだ。少女のシチューとは違う白色、ミルクを入れて味を整えたクリームシチューという奴だろう。クリームシチュー自体はさして珍しくないが、彼の皿の中身だけ別であるというのは不思議な話だ。
「――なんであんただけクリームシチュー?」
こんな良い香草を使っているのだから、そのままの香りを楽しまないと、勿体無いと少女は思う。ミルクを入れれば台無しとは言わないが、風味を損なう。だから少女からすればそのままの香りを味わうべきだと思うのだ。
「……うむ、じつはな。香草のキツイと食べられんのだよ」
「香草の臭いが苦手ねぇ……いい匂いだと思うのだけど」
鼻を何度かひくつかせながら、少女は答えた。やはりこれを苦手とは良く解らない。
「遠くから嗅ぐ分には良いのだが、口に入れるとなるとな」
鼻が痛くなるのだと小年は言う。
風呂嫌いに、香草嫌い、後はどんな嫌いがあるのだろうか。
「話はそのくらいにして、お手を合わせていただくのナー」
エレンは会話を弾ませる少女と少年に向けて言った。
――そうだこのシチューを是非とも冷めない内に頂かないといけない。
「では皆々様、命に感謝して――」
エレンは音頭を取ると、少年と少女に向けて交互に視線を送る。そうしてタイミングを合わせてから一斉の声。
「――頂きます」
始まる食事、少女はいち早くスプーンを走らせた。器から口へ、器から口へ、その単純な動作を素早く繰り返す。数分となくシチューは無くなり器の底を見せた。
「おかわり! お願いします!」
一杯だけ、そう思っていたが、そんな事は無理だった。犯罪的だった、空腹の臓腑に染み渡る感覚、喉を通る暖かさ、舌に触れる味の幸福感、思わず口から欲求が飛び出した。
「たくさん食べるのナー」
自分でも解るほど無作法な少女に対しエレンは嫌な顔一つせずに皿を受け取った。それから席を立ちキッチンへと向かう。恥とエレンの作ったシチューを食べること、その二つを天秤にかけて、エレンのシチューに傾いたのだから仕方ない。
二杯目のシチューを待つ間の物足りなさを誤魔化すように、スプーンを咥えていると少年と目が会った。少年の表情は餌を放り込まれた水槽の金魚のようで――ぽかん、と大きく口を開いて目を丸くしている。
「何よ……言いたいことがあるなら口で言いなさいって」
「いや、特には無いが……そのよく食べるなと」
少年は口元に笑みを浮かべるとそう言った。
「シチューが美味しいのがいけないのよ……」
少女は恨めしそうに言った。あのシチューは何か人を魅了する成分が入ってるに違いないのだ。だからスプーンを動かす手を止められなくなってしまう。シチューの味はなんというか野趣あふれる味だった。それでいて野暮ったくなくて、食べると落ち着く。
――ああ、エレンの真心が入っているのだなと、そんなクサい事を考える。
それは本当に温かく有機的で少女が今まで食べていたものが、やけに冷たく無機質なものであったかのように思い返される。知ってしまえば戻れない、戻りたくなくなる魅力にあふれていた。
「いや、たくさん食べることは良いことだ。それにエレンさんの料理はどれも美味しいからな食べ過ぎてしまう気持ちは良くわかる」
少年はうんうんと首を縦に振った。出会ってから初めて、彼とまともに意見が合致したように思える。どうやら感覚的な部分については彼にも十分話しが通じるらしい。
「お待たせしたのナー」
戻ってきたエレン、今度は山盛りで盛りつけられたシチューがどんと出された。
「ありがとうございます!」
軽く頭を下げて礼を言うと、すぐさま視線をシチューに向けた。少女は硬めの黒パンを手にとって千切ると、その小さな切れ端をシチューに浸して口に運ぶ。硬くて食べにくい黒パンもこうして食べると丁度いい柔らかさになる。
知恵というほどではないが、時間が経って硬くなった黒パンはナイフで切れない程の硬度を持つのでスープに沈めて元に戻したり、クワスと呼ばれる不思議な飲み口の飲み物の原料にされたりする。
そこまで放置するなら食べる分だけを焼けば良いとも言えるが、まとめて焼くほうが効率が良いという点と、黒パンが極端に日持ちするという点で、黒パンはまとめ焼きをするのが主流である。そもそも焼きたてなら柔らかい白パンが一番だと少女は思う。
「たくさん食べてくれると作った甲斐があるのナー」
エレンはそう微笑みかけると、手の甲に顎を当て食卓を眺めていた。
少女は食べながら視界の一部にエレンを入れて、それから「はっ」と気付く。先程からというか食事が始まってから一口も彼女のシチューは減っていないのだ。
「エレンさんは食べないんですか?」
「私なのかナー?」
「ええ、先程から口をつかていないようなので……」
体調でも悪いのだろうか、と少女はそんな事を考える。
「いや違うのナー。実は……」
エレンは恥ずかしがるように爪の先で頬を描いた。
「実は?」
尋ねる少女。
「……猫舌なのナー」
「ああ、なるほど……」
そこは猫なのかと少女はポンと手を打った。