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リィゼロッテの理由

    1


 ――白い天井。

 暗幕が開くように光が差し込んだ。オレンジ色の焼けるような夕焼け、その暑さにじんわりと、少女は寝汗をかいていた。その濡れた感触にわずかな不快感を覚えながらも、少女はふと身を起こした。

 少女が目を覚ましたのは見知らぬ一室、その一室のベッドの上であった。右から優しく吹き込む風、少女は吹き抜けていく風に心地よさを感じながら、ふと風上へと視線を向けた。そこには小さな窓があった。

 四角く切り取られた風景。形式張ったその景色から見えるのは、空気をその色で染め上げる茜色の夕日。この世界で空が見えるのは「街」の中だけ。つまり少女は街に運びこまれていたようだった。問題は――

「――ここは街のどこか……ね?」

 目前に迫っていたあの街ということはおそらく間違いない。だとすれば、あとは「街の何処に運び込まれたのか」という事になるが、少なくとも病院では無さそうだった。取り敢えず少女にとってそれは都合の良い事だった。

 風と一緒に花の香りが届いた。優しくて、少しだけ甘い香りだ。

 匂いの正体はベッド脇に置かれた小テーブルの上にあった。果物が盛りつけられた竹籠、その左隣にある竹籠一杯に摘み取られた勿忘草が入っていた。野に咲いている時と少しも変わりの無い鮮やかさを保っているところを見ると、今日摘み取られたばかりの花だろう。

 それを見て少女はほっとした。助けられたとはいえ、それが邪な心から来るものではないとは限らない。助けた人間は、少女を売りさばく事が目当てかもしれないのだ。控えめに評価しても少女は美人だ。さぞ高値が付くだろう。しかし勿忘草が、彼女を助けた人間がそのような荒くれでは無いことを示していた。

 考えてもみれば解る、そのような荒くれが花摘みなどするわけがないのだ。いやむしろ花摘みするような荒くれなど少女は見たくない。足で気づかぬ内に蟻を踏みつぶして、そのくせ卵料理を出されれば「ひよこさんが可哀想」などとのたまう、あの女の言う「乙女力」を持った荒くれなど嘔吐ものである。

 この部屋の主は恐らく、女性だ。それも女性の冒険者だろうと少女は考えた。

 しかしそれは暴論である。程なくして少女はそれを知った。何故かと言えば少女がいる部屋へと、ドアを開き少年が入ってきたからだ。短く揃えられた灰色の髪、それから底の見えない海のような紺碧の目、その少年は手に底の浅い木桶を持って、彼女の居るベッドの側まで歩み寄ってくる。

 頬をひきつらせて身構える少女。しかし少年は気にせずに歩み寄る。少しだけベットから距離を空けて手に持った木桶を床に置いた。ちゃぷん、という水音と共に木桶の水面が傾いて大きく波打った。

 少年はしゃがむと、木桶に並々と注がれた水の中にタオルを沈み込ませ、水を吸わせると引き上げて固く絞る。水面を水が打つ音と二人の息遣いだけが、部屋の中にしんしんと響いていた。タオルから水が出なくなると、少年は立ち上がった。

「…………」

「…………」

 沈黙。

 それは少女にして、この目の前の少年が何を考えているのか、全く予想もつかないということ――そして少年にして、目の前の少女が起きているとは思わず、何を話すべきなのか考えつかないということ。二つの意志が平行線で遭ったために起きた沈黙だ。

 少年と少女の初めての邂逅だ。

 先に切り出したのは少年だった。少女の顔を見て、少しだけ照れくさそうに頬を爪の先で掻いてから、実に簡潔な言葉を口にした。

「ルディだ」

 ただその一言だった。少女は呆けた表情を見て、その表情を徐々に目を細めて訝しむような物に変えていく。少年はそんな少女の事を気にもせずに、タオルを少女の頬に当てて掬うように優しく顔を拭いた。

 ひんやりとした感触が火照った顔には丁度いい。いいのだが、少女にすれば突然現れた少年に、何故か顔を拭かれているという奇妙な状態だ。

「……えっと何をしてるの」

「何をって、汗を拭いているんだ」

 そういう話ではない。少女が言いたいのは、何でそんな事をしているのかという事だ。少年がさも当然といった表情で答えるので、おかしいのは自分の方ではないかと考えた。

「そのくらい自分でできるわよ」

「そうか、なら自分で頼む」

 少年は少女にタオルを手渡すとそう言った。彼が身体に身に着けているのは軽装だが身体に馴染んで動きやすい革鎧だ。急所の部分だけに鉄板がしこまれていて。最低限の安全は確保されている。駆け出しの冒険者は頑丈で見栄えのするプレートメイルなどを選びがちだが、実際の所、実用性があるのは革鎧やブリガンダインの軽量装備だ。

 野外で野生動物や魔獣と戦闘を行う冒険者に求められるのは防衛力ではなく機敏に反応する運動性と移動能力だ。それに大型の魔物相手に立ちまわる際に鎧を着込んでいた所で、圧倒的な重量で鎧の中の人間はサンドイッチにされてしまうのがオチだ。

 それならば軽装の革鎧の下にチェインシャツを着た方がまだマシという話だろう。

 彼の革鎧はよく見れば表面に細かい傷が沢山ついていて、それなりに使い込まれている事がわかる、しかしそれでいながら光沢のある皮の表面は、彼がマメに手入れを行なっている証拠だろう。少なくとも中級、もしくはそれ以上の実力はある冒険者だろう。

 少年はまだ若いというのに、それなりの修羅場はくぐっているようだ。

 探るように少年の身体を見ていて、少女はある物に目をつけた。「Rudy Wolfgang」、首から下げられていたドッグタグにはそう刻まれていた。

 ルディというのはどうやら、彼の名前らしい。それにしてもドッグタグなんて縁起でもないと思う。冒険者とはそこまで危険な職業なのだろうか。少女は少しばかり冒険者という職業に夢を見ていたのかもしれない。

 ドッグタグというのは所謂「身分証明書」だ。それは持ち主の代わりに名乗ってくれるもので、名前、血液型、生年月日、性別、宗教などを刻んでおけば、自分が死んだ後に見つけた誰かが弔ってくれる。

 少年は少女の視線に気付くとドッグタグを革鎧の中にしまう。大切なモノなのだろうか、少女には握り締める力がやけに強いように見えた。

「――リィゼロッテ」

「――ん、なんだ?」

 少女は一度深呼吸してから言った。少年はドッグタグをしまった後も俯いていたが、しばらくすると顔を上げて疑問符を頭の上に浮かべた。

「名前よ、リィゼロッテ。よろしくルディ」

 少女はそっと右手を差し出してから、わざとぶっきらぼうに答えた。それは素直に相手を受け入れられる程器用でも、無下に突き放すほど少女が不器用ではなかったからだろう。

「ああ、よろしくリィゼロッテ」

 少年は軽く微笑んで、少女の手を握り返す。少女は握り返してきた少年の手の、ゴツゴツとした感触に少しだけ驚いてから――ああ、こんな人畜無害そうな少年でも、冒険者なのだなと感心した。

「…………」

 握手と名乗りを終えた後、無言で少年は少女を見た。

「……何? 言いたいことがあるなら口で言いなさいよ」

「――ふむ、リィゼロッテ、身体を拭かないのか。汗をかいたままにするのは良くない、汗に体温を奪われれば風邪を引く、風邪を甘く見ると痛い目を見るぞ。たかが風邪だというその油断が命取りだ。それに汗をかいたままにすれば匂いがする。僕は汗の匂いは落ち着くし好きなんだが、エレンさんは『身体は綺麗にしておくべきなのナー』と言っていたから、結論を言えば君は身体を拭くべきだと思う」

 ――変態だ。

 この少年は変態だ。こいつは生まれながらの変態だ、少女は早いところ彼を警察に渡すべきなのではないかと思った。いきなり特殊な癖を告白して、少年は少女に一体、何を望んでいるのだろうか。

「こ、ここで身体なんて拭くわけないでしょ!」

 思わず語尾が裏返りそうになった。

「――外で脱いだら警備隊に捕まるぞ?」

「そういう意味じゃない!」 

 少女はつい、手に持っていたタオルを少年に投げつけていた。予想以上に勢いが付いたタオルは、少年の顔面へと一直線に飛んでいき、ペシャリと濡れた音を立てぶつかる。

 少年はねばり強く張り付くも、重力に負けて落ちるタオルを手で受け止めると、恨めしそうな表情で少女を見た。その表情に少女は少しだけ、胸に罪悪感を感じた。

「何をするんだリィゼロッテ……僕は君の為を思って言ったのに」

「汗を流すなら普通にお風呂に入れば良いでしょう!」

 少女は叫んだ。何故自分がこんなにムキになっているのか自分でも分からないが、この場でおかしいのは少年であって自分ではない、その譲れない一線のためかもしれない。対して少年は驚き顔で少女を見ている

「そうか……リィゼロッテも風呂派なのか」

 少年は哀愁に満ちた表情で言う。

風呂派などという言葉は初めて聞いた。まるで風呂派ではない派閥が居るかのような言い草である。もしかして彼は本当に身体を布で拭いているのだろうか。それはそれで良いのかもしれないが風呂のほうが手間ではないと思う。

「『リィゼロッテは』って、世の中の人間は大抵風呂派だと思うけど……?」

「……むぅそうか、僕は風呂は苦手なんだ」

 少女はきょとんとした表情になる。虫が苦手とか、人参が要らないだとか、苦手に数あれども風呂が苦手だという人間は珍しい。旅先でお風呂に入りたいと願う人は居ても、風呂に入る事を嫌がる人は居ないと思っていた。

「苦手ってなんで?」

「……笑わないか?」

 やけに念を押す少年。そんな風に念を押されると、聞きたくなるのが人の心情というものだろう。焦らされた気分になった少女は不満気に口を尖らせる。

「……人の趣向を笑わないわよ」

 早く、と少女は少年を急かす。少年は低く唸りながら、考えこんで数秒。ちらちらと伺うように少女を見た。「言わなくてはだめなのか?」とそんな感じである。

「うむ……シチューの気持ちになるんだ」

「――へ?」

 呆けた声が出た。 

 寝台の無い寝台特急――いや、そんな物はないが、それくらい間が抜けた事を彼は言ったのだから仕方ない。

「だからシチューの気持ちになるんだ」

「その心は?」

 つまりどういう事なのかと、少女は尋ねた。

「熱いお湯に浸かっているとだな、きっと旨味を吸いだされて、それから全身の肉が柔らかくなって、食べごろになってしまうに違いない」

「――ぷっくくく……あははははは」

 口内に溜まった息が堰を切って溢れ出す。笑わないとは言ったが、彼の発言は少女のツボを見事に抑えていた。我慢しろというのは谷底へと突き落として「死ぬなよ」と言うぐらいに無理がある話だ。

「むぅ……笑わないと言っただろう」 

「ごめん、悪かったわよ……でもシチューの気持ちって、そんなグツグツ煮込まれるわけでもあるまいし、身体温まって気持ちが良いのに勿体無い」

 本当に勿体無いと思う、風呂好きの少女にしてみれば人生の大半を損していると言っても過言ではない。入浴して困る事など、心地よすぎてつい長風呂してしまい、のぼせてしまう事ぐらいだ。

「……変か?」

「ええ、それも飛び抜けて」

 自覚がない天然――いや自覚がないから天然なのだろうが、地で行く彼が考えることは全く以って少女には不可解だ。それでもやはり少年は悪い人間では無いのかもしれない。

「むぅ……リィゼロッテは手厳しい」

「私は普通よ、それよりルディ――冒険者なら入浴の大切さは解るでしょ?」

「――ああ、その点なら問題ない」

 少年は自信満々に答えた。彼も冒険者ならきちんとその辺は理解しているのだろう。

 「街」の外に出て活動を行う冒険者は、否応なしに瘴気にその身体を冒される。そこで必要なのが浄化だ。魔水晶を底に沈めた浴槽に入ることで、外にいる間に身体に蓄積した瘴気を浄化する。つまり冒険者にとっては食事と同じぐらい、場合によっては食事以上に大事とも言える習慣だ。

 外に出たらうがいするのと同じで、街から出たら入浴が鉄則だ。

「あと、もう一つだけ、デリカシーを持ちなさい」

「それならば知っている配達の事だろう」

 それは配達だ、とつっこんでしまったら負けなのだろう。少女は先程からつくづく思うのだが彼はきっと他の惑星系の人間なのだろう。

「もう良いわ……あんたには期待しない」

「何を呆れているかは知らんが、肌を見られる事を気にしているなら気にする必要は無いと思う。もう裸なら見られているのだからな」

 ――一秒、思考停止(フリーズ)

 ――二秒、機能停止(シャットダウン)

 ――三秒、再起動(リスタート)

「――な、な……今なんて言ったああああ!」

「裸なら既に見られているから気にするなと言ったのだ」

 きっぱりと、そしてはっきりと、少年は言ってはならない事を言った。

 そうしてこうして先程から感じていた違和感に少女は気付いた。

 服が着替えさせられているのだ――肌触りの良い桃色のシルク地のパジャマに。無論少女にこのようなパジャマに覚えは無い。つまりだ、このパジャマはここに運ばれてから着替えさせられた、恐らく考えたくないが少年の手で。

「――ロス……」

「リィゼロッテどうした?」

 少年は少女から立ち上る不穏な空気を感じ取ったが、それを感じた時には既に遅かった。ドス黒い空気の渦の中心で少女は俯いていた面を上げた。鬼だ、鬼の形相で睨む少女がそこに居た。

「コロス、コロス、コロス、殺すッ!」

 約二秒間の出来事であった。

 1.ベッド脇の小テーブルに少女は手を伸ばし

 2.果物籠の中からナイフを掴み取り

 3.ナイフを鞘から抜いた

 4.その後大きく振りかぶり

 5.投擲した

 投擲されたナイフは少年の頬を掠め、少年の背面の壁に三センチほど突き刺さった。ナイフが掠めた右側の頬には赤い線が走る。少年は自分のすぐ横に、額にナイフを突き刺して倒れる自分の姿を幻視した。

 宣言と共に繰り出された――いや宣言からの時間差がほとんどゼロに等しかったので、宣言など無いに等しかった「殺すッ!」といった時には既に、行動は終わっていた。感情と行動が直結するというのは恐ろしいものである。

「死ねえええええええええ!」

「待てリィゼロッテ、君は何か根本的に誤解していると思う。一度話し合いを試みるべきだと僕は思う。もっと互いに理解し合おう」

「誤解? ええ、そうね誤解していたわ――アンタを少しでも良い人間だと思ってた事が、一番の誤解よッ!」

「早まるなリィゼロッテ!」

 少女は壁にかけられている片手剣(ショートソード)を掴みベッドを飛び降りる。少年までの距離は目測で見て二跳びほどあれば十分だろう。一跳び、あと一跳びで片手剣が届くであろう距離まで近づいた時の事だった。

 ――ギィと音が鳴る。

 部屋の扉の音だ、力が抜けるような情けない音だった。その音に気を取られ少女は斬りかかりへの一跳びをやめた。そうして彼女が開いたドアの方に視線をやると、扉に遅れて部屋の中へある人物が入ってきた。

 それは少年にして、待ちわびた女であり――また少女にして、未だ見たこと無い容姿を持った女だった。

 少女の目を奪ったのは、その女が女性にしては高い身長を持っていた事だろうか――否。それはその女が東方的(オリエンタル)な民族衣装を身に纏っていたという事だろうか――否。彼女の頭の天辺そこに間隔を開けて二つ、ぴんと立った耳が立っていた事ともう一つ、背面腰下の辺りから長く毛並の良い尻尾が生えていた事である。

 少女が驚くのも無理は無い、その女性は猫妖精(ケットシー)と呼ばれるこのミストガルに住む少数民族であった。猫妖精は隠れ里を持ち独自の文化発展を行なっているため、外部との接触は極端に少なく、そのため街に住んでいれば、会う確率は限りなく低いだろう。

 そんな中、彼女は街に住む、猫妖精の中でも極めて珍しい存在であった。

「喧嘩は良くないと思いますのナー」

 極めて穏やかな声で彼女は言った。そんな穏やかな声と猫妖精の糸目を見ていると少女の中の戦意は音を立てて燻っていくような気がした。

「エレンさんい良い所に、リィゼロッテに説明してやってくれ」

 少年は猫妖精にすがるように言った。猫妖精の名前はエレンというらしい。

「リィゼちゃんと言ったかナ―、安心すると良いナー。神様に誓って、乙女の柔肌をルディくんに見せるような事はしていないナー」

 エレンはルディの言葉に頷くと身体ごと少女の方を向いて言った。エレンの声は優しく穏やかだが真剣そのもので、嘘ではないことがはっきりと感じてとれる。

「でも……裸を見たって」

 少女は少年を睨んで、問い詰めるように言った。

「見たなんて言ってない、見られたと言ったんだ。見たのはエレンさんだ」

 紛らわしい言い方をするな――と言ってもこの少年からすれば、エレンが少女の裸を見るという事と、少年が少女の裸を見るという事は同義なのかもしれない。だとしたら一から叩きこむ事も視野に入れるべきだ。

「そうだったんですか……エレンさんありがとうございます」

「……ここまで運んだ僕に礼は無いのか」

「――ふん……あんたに言う礼なんて無いわ」

 少女は吐き捨てるように言ってみせた。確かに考えてみれば、明らかにこの寝間着は少年の物ではない事ぐらい分かっただろうが、それでも少年が誤解をさせるような事を言ったのが元はと言えば悪いのだ。

「そもそもがおかしい、僕はリィゼロッテの裸なんて見たくない」

「――むっ……」

 少女は少し感情を波立てた。「見たい」などと言われれば困るが、見たくないと言われるとそれはそれで魅力がないと言われているようで、少女の自尊心を傷付けた。面倒といえばそれまでだが、複雑な少女の純情である。

「何故ならばだな――」

「何故ならば?」

 少年はやけに念を押すように言った。早く先へと少女は急かす。

「女性はむちむちぼいんに限ると、ロマリオが言っていたからだ。女性に関してはロマリオは僕より博識だからな、アイツの言う事は間違いないと思う」

「ロマリオくんはお仕置きなのナー」

 ぴくり、とエレンの表情が少しだけ動いた。

 それから少女の血管が隆起する。それも、はち切れんばかりの勢いでだ。

「人にはねえ――」

「……リィゼロッテ?」

「人には触れちゃならない痛みってもんがあるのよ! 其処に触れたなら後はもう――命のやりとりしか残っちゃいないんだあああああ!」

 少女は再び片手剣を振り上げ、跳びかかる。先ほどと同じ無警告での攻撃だ。しかし今度は二度目なので少年も素早く反応することができた。振り下ろされる刃に対して、胸のケースからナイフを抜いて応戦する。

 秒と待たず――がきん、と重量を持った金属同士が打ち合う硬質な音が響いた。上から押しこむように切りかかる少女、対して下からナイフで受け止める少年。膂力と刀剣技術で言えば少年が難なく防げる程度の斬撃だったが、体勢が悪い。

 上からのしかかる少女に対し、踏ん張りの効かない姿勢の少年。加えて得物の重量が圧倒的に違う。両手で握った片手剣と、片手でしか握れないナイフ、どう考えても分があるのは前者である。

 少年の毛先に、よく研がれた片手剣が触れて――はらり、と灰色の毛が風にさらわれた。宙をしばらく舞った後に、吸込まれるように窓の外へと消えていった。

「……ぐっ! リィゼロッテ殺す気か……」

「殺す気じゃなくて殺すのよ!」

 更に片手剣に重みが乗る。少年の膝ががくんと一段下がる。

「待て謝る、解らないが謝る。だから剣を下げてくれ!」

 額に汗を浮かべながら訴える少年。

「百年遅い! 良いから私に斬られろおおおお!」

 怒りのままに叫ぶ少女。

「大変なのナー」

 全然大変そうではない猫妖精。

 狭い部屋に三人。

 一瞬静寂が走る。嵐の前の静けさのようなほんの小休止だったが、その瞬間を待っていたとばかりに音が鳴った。

 ――くぅ、と鳴った。

 控えめで、慎ましく、いじらしく、そして何より可愛らしい腹の虫の静かな主張だ。腹の虫の飼い主は問いただすまでもなく自ら、自分だと名乗り出た。

 俯き肩を震わせる少女、下から覗き込む少年。紅い林檎だ、そこには赤い林檎があった。まるで林檎のように、頬どころか顔全体を赤く染めた少女の姿があった。

「…………」

「…………」

「…………」

 三秒にかけること三人分の沈黙。

「……リィゼロッテ腹が減っているのか?」

「――ふんっ!」

 少女は強く息を吐きながら、片手剣を思い切り振りぬく。少年の脇腹を片手剣の腹の部分が射抜いた。鈍い音、少年はその場にうずくまる。

「ご飯にするのナー」

 猫妖精の底抜けに明るい声が響く。


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