プロローグ
プロローグ
掌中に熱が集まるのを感じて少年は目を見開いた。右から迫る黒い影、その影に向けて少年は掌打を繰り出す。掌底が影を捉え、手応えと同時に影の重量が腕へと加わる。瞬間、腕に吸い寄せられるように影は静止する。
――遅れて一秒。
波打つような衝撃が影を穿つ。影は吹き飛び、三メートル程先の地点に叩き落された。それから引きずられるように、一から二メートルほど転がり、運動を止めた。
構えながらゆっくりと歩み寄る少年の前には、薄い灰色の毛皮の塊が横たわっている。影の正体は小柄なウルフだった。しばらく少年は構えたまま一定の距離を保ち、ウルフが完全に動かなくなった事を確認すると警戒を解いた。
そうして今度は革鎧に取り付けたケースからナイフを抜いて、ウルフの脇にゆっくりとしゃがみ込む。ウルフにナイフを突き立て、それから手を合わせて静かに祈りを捧げた。彼にこの武術を教えた人間に習った事だ。
――敬意を払え。
他人が肉を以って己の肉と為すならば、まずその生命に敬意を払え。少年には難しい言葉ではあったが、根っこの部分ならば理解できる。生命は尊い物、ようするにそういう事だと少年は考える。
少年は黙祷を終えると、ナイフでウルフの皮を剥ぎ始めた。若いウルフの毛皮は高く取引される。品質にもよるが、この毛皮なら六十ギルダーは固いだろう。六十ギルダーと言えば、安いパンなら三食食べても六日は保つ。これでウルフは肉も食べれれば文句なしなのだが、ウルフのような肉食獣の肉は、硬くて筋張っていて、おまけに獣臭い。
肉の部分には涙を飲んで貰うことにして、街道脇の木の下に埋めておく。こうしておけば土の栄養になり、無駄にした事にはならないだろう。剥ぎ終わった毛皮は変なクセがついてしまわないように丁寧に、愛車の蒸気二輪へと積み込む。
蒸気二輪ウラル、それはこの世に一つしか無い試作品だった。少年の住む街の技術屋である多々良が作った品だ。なんでも蒸気機関とかいう物を使って車輪を回すそうだが、内部の仕組みについては良くわからない。しかしそれで良いとも思っている。
刺さっている鍵を回すと蒸気機関が動き始める。蒸気機関が動いたら、足でギアを変えて右のハンドルを捻る。すると車輪は回転を初めて進む。進んだらハンドルと体重で上手く方向を変えたり、止まりたければブレーキで前後の車輪を止めれば良い。
蒸気機関の中で何が起きているのだろうかとか、なんで車輪が回るのだろうかとか、なんでブレーキを踏んだり握ったりするだけで止まるのかとか、なんでこんな早く走れるのだろうかとかは、少年の考える事じゃない。
これを作った多々良に言わせれば「これは人が乗れる代物じゃない」だそうだ。それだけに少年が乗ってみせた時には、目を見開いて鬼のような形相で問い詰めてきたものだ。確かにハンドルだけでは曲がりにくい所や、止まりにくいところはあるが、繰り返し慣らす内に微妙な感覚でのコントロールができるようになった。
それまでに何度転んだことか、無茶な曲がり方をして転んだり、急ブレーキをかけた時につんのめって転んだり、はたまた滑って転んだり。暴れ馬を乗り鳴らしている気分だったが、もう随分と馴染んで慣れたものだ。
ウラルにまたがった少年はゴーグルを目に当てるとギアを踏み、右手を軽く捻った。仕組みなんてほとんど理解していないようなものだが、単純に一つだけ理解してる事がある。
――早く走ると気持ちがいいのだ。
突き抜けていく感覚が、吹き抜けていく風が、置き去りにしていく風景が、ウラルが刻む心臓の鼓動のような揺れが、単純に心地よいのだ。それに何より、徒歩で移動するよりもずっと楽だし、活動時間と範囲が広がる。
ロゼッタ街道の緩やかな峠道を登って行くと、途端に視界が開けた。峠の天辺まで登りつめたのだろう。少年は不意にブレーキをかけて車輪の回転を止めた。峠の頂上から見れば街道脇の木々の緑と、この辺り一体に群生する勿忘草の青、それから街道の温かい赤褐色が一枚の絵のように広がっている。
反面、空は暗々とそして濛々と曇らせる黒灰色の瘴気に包まれていた。
瘴気、それは天災のような物だ。五年前に現れた大地の裂け目から吹き出した瘴気、それは未知の物だった。解ることは二点、身体に取り込み続けると害を為すという事、それから魔水晶と呼ばれる鉱石に、瘴気の浄化作用があるということ。
我先にと大国は魔水晶を集めて、瘴気から自国を守ろうとした。考える事はどこの国も同じわけで、鉱山の独占などが起き始めると、あとは単純だ、天災は水が高いところから流れ落ちるように、大国間での戦争へと発展した。
お互いに刃を振るい合い、有限な資源を我が物とせんとした結果は単に、人がたくさん倒れて、地面を赤い血と涙で濡らしただけだった。多くの戦死者の魂を「教訓」なんていう、一ミクロンも腹の足しにならない変えた各国の指導者達は、「手を取り合う未来」なんていう御題目を掲げて、圧倒的な支持とやらを引き連れて「新連邦」を樹立した。
結果、瘴気に対する具体的な解決策は未だ無い。
そうして、こうして、少年は「街」で暮らしていた。薄暗い瘴気と対照的に、一キロメートル先のここからでも見える蒼く深く光る大魔水晶、この薄暗い時世で輝く希望の象徴だ。大魔水晶を中心にして広がる「街」、エルンストで少年は暮らしていた。
「ふむ、そろそろ行くか」
景色に満足したように頷いて、少年は視線を街道の先へと向ける。そして再び右手を捻ろうとした時の事だ。小さくうめき声のような音が聞こえた。それはウラルの蒸気機関の音にかき消されるか否かギリギリの、小さな音だった。
「………うぅ」
「…………」
少女だった。紅茶で染めたような紅い髪を地面に垂らして、ぐったりと、しかししっかりとした重みを持って勿忘草の上に倒れていた。紅い髪のすきまから覗く白い肌、冬になれば積って春になれば消える、あの雪のような儚げな白さだ。
「こんな所で寝ていては魔獣に食べられてしまうぞ」
冗談ではなく本当に、街道沿いはある程度管理されているとはいえ、瘴気で凶暴化した魔獣が少なからずうろついている。魔獣から見れば生きているのに動かない人間というのは、単なる餌のようなものである。
「…………」
「…………」
沈黙が流れること数秒。少年は理解する。
「返事がない……行き倒れのようだ」
それは少年と少女の奇妙な遭遇であった。