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囁かな約束

作者: オ氏茸挟

たわいもない日常、

その日、彼女へ囁かな約束をした。



「尾崎豊のI love you練習してるんだ。」



「こないだ部屋の隅に立て掛けてあったホコリかぶったギターのこと? 」



「そうそう、ひっぱりだしてさ。久々だとちょっと勘が鈍ってるけど、たしか今度誕生日だったよね? 」



「そう、ちょうど一カ月後。よく覚えてたね」



「まあね。だからその誕生日に間に合わせるから待っててよ、弾けるように練習するから」



 思い返すのはそればかり。

それから数日後に起こる悲惨な出来事をその時知っていたならば、きっと約束しなかっただろう。



「へえ、じゃあ楽しみにしてる」



 良く晴れた昼下がりの休日に二人、はっきりとその約束をしたのを覚えてる。

彼女の笑顔と共に……




 翌日、私は車で走行中。前から逆走してきた乗用車に時速百キロの猛スピードで正面衝突され、即座に意識を失った。

目覚めたのは病院の一室。

白一色に染まったクロス張りの部屋はなにもなく伽藍としていた。

全体的に打撲が数ヶ所、

衝突寸前、咄嗟にハンドルを右いっぱいに切ったおかげか、私も相手も特に命の別状はなくとにかく安堵した。

軽く頭を打ったのが少し気になるくらいで奇跡的に目立った外傷はなくよかったとお医者さんは懇切丁寧に話してくれた。



 私はもうかれこれ一週間は眠りに落ちていたらしい。その間会社を休んでいるのだから仕事の進み具合が途端に気になる。

それと、彼女の誕生日がいつだったかなぜだろう無性に気になった。

だが、仕事のスケジュールはすんなり思い出せても、彼女の誕生日がなぜだかすぐに出てこない。

最初はただの混乱、ド忘れだと思った。頻繁に扱う仕事の情報、年に一度しかこない彼女の誕生日。すぐに思い出せないのも無理はないと感じた。

その通り、少し時間を置いたら思い出したのだから。




 だが事件はすぐに起きた。

その日、病室が一人部屋なのをいいことに、看護師さんに隠れてギター練習をしていた時のこと。

小さな違和感からギターの楽譜に印をつけてみた。

完全に把握したところまでに

“ここまで完了”

と明記した。

病み上がりでなかなか練習に打ち込めない自分を奮い立たせるため、もう時間も少なければ、着実に一歩ずつ身のある練習をしなければと、堅実に考えたからだ。



 次の日、私は昨日同様ギターを抱き楽譜を開き指を進めた。

そこで小さな違和感の正体がわかってしまった。

“ここまで完了”

と、書いた楽譜の七割も覚えていない、いや忘れてしまっている自分がいた。

昨日はあれほど順調だったのにおかしなくらい自然と指が進まない。

次のキーがわからない思い出せない。

そんなことは実際いくらでもあった。

担当が決まっているらしく、掛かり付けの看護師さんに何度も顔を合わせているはずなのに、名前がまったく覚えられない。



 私は事故後から記憶が持続できなくなっているかもしれないことに気づいた。

先生に悩みを打ち明けると、すぐさま再検査を執り行うように手続きしてくれた。

が、その前に先生に二三質問された。



「では検査の前に岡山さん、昨日の朝食なにを食べました? 」



「……いや、わかりません」



「そうですか、ではさっき食べた昼食はどんなメニューでしたか? 」



「えっ? 」



 何を馬鹿な、つい二時間前の出来事だ、忘れようもない。

それを聞かれるとは思っていない私は絶句し硬直してしまった。

痛いところをつかれたのが本音、勿論二時間前の昼食を思い出せない私がいる。

それが事実だった。




 それからCTスキャンやMRIやレントゲンやらいろいろした。事実目を凝らしてレントゲンを見上げれば、先生の指差す先に脳に小さな衝撃が加わっていることが明らかになった。

病名は記憶障害。

まだ断定はできない、場所が場所なだけにもう二三週間は様子ともっと詳しい検査結果を見なければはっきりとしないがと、先生は歯が浮いたような言葉を付け足した。



 それから検査結果を待ちながら、脱力感か悲壮感か、何事にもやる気がまったく起きなかった。

看護師さんと何を話したかも上の空。高校時代のクラスメイトもきてくれたが、愛想笑いで無事だったよと言って適当に済ませた。




 次の日、目覚めてはじめて病室に彼女がきた。

目を真っ赤に充血し目の下のくまが黒々していた。

なんでも遠い親戚かなんかの不幸ごととかで遠くに出ていて今さっき戻ってきたらしかった。



「おかえり」



「うん……ただいま」



 ふうとため息一つ粗末なパイプ椅子に腰掛けると、うなだれる彼女の元気の無さが見て取れた。

どうしたものか気力のない二人はお互い言葉が続かない。

いくら遠い親戚の人間関係が浅い人だからって、彼女は葬式帰りだ。電車に長らく揺られていたとなれば疲れも相当だろう。相当顔色も悪い。

俺は気をきかせて、彼女が好きで昔よく弾かせられた曲を奏ではじめた。



「Let it be?」



「そう、Let it be」



 ビートルズの代表曲。

お互いが大好きで、二人が出会うきっかけになったのもそれだった。

これがあれば会話なんていらない、心通じるものがそこにはあった。

事故前の記憶は鮮明なものだ。これくらいならば綺麗に奏でられる。



 弾き終えるなり彼女はスクッと立ち上がった。見た目疲れがほんの少し削げたように見えた。


「誕生日覚えてる? 」



「もうすぐだ、こないだ話したじゃん」



「うん、不安になったからさ」



「……俺は無事だよ。聞いたと思うけど怪我の程度も軽かったし退院もしていい頃合ではあるんだ」



「先生が心配性なんだね」



「まぁ、そうかもしれない。できれば誕生日の日も入院してるだろうから君からきてほしい。ほんとは僕から会いに行かなきゃならないのだけど」




「言われなくてもわかってる。そのかわりに尾崎豊たのむね」



「あ、ああ、任せろよ。ばっちりだから」




 その話がでたら思わず言葉が詰まるかと思ったが、うまくごまかせて安堵する自分がいた。

記憶障害のことは真っ先に伝えなきゃならないのに誰よりも知られたくない。

まだ決まったわけではないし、もしかすると誤診かもしれない。

健康なのかもしれない。



 けれど、彼女の誕生日は大事にメモしている。

忘れるかもしれないから。

彼女の誕生日はあとたったのすこししかない。

なのに実のところ、自分の記憶を維持するのでさえできるかどうか不安で不安でたまらなかった。

どうしようもなく不安で恐怖でたまらない日々が続いた。



「明日、自分が自分でなくなるなんてありえるのだろうか」



 底知れぬ恐怖に吐き出すように思わず言葉が勝手に出ていた。

それから一日一日を噛み締めるように練習に明け暮れた。

看護師さんが来ようが帰ろうが、辺りが暗くなろうが明けようが、

私は一心不乱にギターに没頭した。

最初は注意していた看護師さんも呆れたのか疲れたのか、諦めて何も言わなくなっていた。




 頭で理解したのが、私は記憶の蓄積はうまく出来ないのが自分で出した結果だった。

だからあとは指に教え込ませるしかない、そう悟っていた。

だからひたすらの練習、明けても暮れても向かい合うギター、楽譜。

こんな付け焼き刃な方法で失敗したらどうするかとか、上手くない演奏に彼女が喜んでくれるかとか自問自答を繰り返し繰り返して、とうとう彼女の誕生日の朝を迎えた。



「おはようございます」



「先生やはりしなければなりませんか? 」



「ええ、今日は大事な日と聞いてます。早めに終わらせますよ」



「お願いします」



 私は記憶障害と共に、事故のショックで心の病になっているかもしれないと病院の先生は気にしているらしく、私は精神的治療を毎日一時間ほど受けていた。

相変わらず録画用のムービーカメラをオンにすると、いつものように治療は何事もなく終わった。



 彼女をベッドに横たわりながら待った。

一日が太陽と共にゆっくりと終わってゆく夕方、何時間ぶりだろうか待ってましたと扉が開いた。

そこには彼女、ではなく朝に精神治療した先生が立っていた。

私は一度、病院の考えで病室を変わったからここまで彼女を案内してくれたのかなと思ったが、先生はそのまま一人で私の病室に入ってきた。



「御気分はいかがですか?」



「彼女が……」



「残念ながら彼女と呼ばれてらっしゃる菅原サヤカさんはいらっしゃいません」



「先生、なんで彼女の名前知ってるんですか? 」



「それは奥田さん貴方が一番ご存知のはずです、事故のその瞬間まで隣にいたのですから」



 奥田と呼ばれたのは紛れも無い私だ。

だが、先生から私の彼女の名前がでるはずがない、一度だって言った覚えがない。

疑問符が頭についたまま、話しは続く。



 「うちの看護師が奥田さんが誰かと話しをした後、ギターを取り出しビートルズの曲を弾きはじめたそうです」



「それは私のかの……」



「受付ではどなたもきていませんでしたよ」



 困惑する記憶の中ガラリと病室の扉が開く音がした。

先生は無反応で聞こえなかったのだろう。

ふと送った視線の先には彼女がうなだれて立っていた。

驚いてまばたきを二三度ほどパチパチすると、彼女は瞬間移動するように僕の目の前に来ていた。

先生にはまるで見えていないようだ、だが僕の異常に何かを必死に言ってるようだが何も聞こえない。

瞳には彼女の姿だけ見上げるようにして身体が硬直し、金縛りのように動かない。

彼女の唇が微かに動いた。



ワ ス レ ナ イ デ ネ




 きつそうな苦しそうな彼女の姿に僕は恐怖した。が、唇の微かな動きに私は咄嗟に右手を差し出していた。

だが、それは空を切っていた。

先生は私の名前を必死に連呼していて、エアコンがよくきいているのにパジャマはじゅっくりと汗をかいていた。それと同時に、記憶の欠損を完全に思い出していた。


 僕は衝突事故当日、車を一人で乗っていなかった。

左の座席には彼女がいて、ハンドルいっぱいに切った際、左はそのままぺしゃんこに押し潰されたのだ。

さっきの幻覚に出てきたように、彼女はボロ雑巾のように変わり果てた姿をしていた。



 それから退院まではほんと早かった。

精密検査の結果は立派なものだと、先生に笑われるくらいなにもなし。



あれから三年後、

毎年、彼女が亡くなった命日の今日。

彼女のお墓の前で尾崎豊のI love you を毎年忘れず弾いている。もうコードを忘れることも不思議となくなった。

高台に構えた墓前は見晴らしがよく街全体を見渡すことが出来た。

風も通りがよく、今日もお供えの花が揺れていて、あの笑顔で笑ってるような気が、私はしていた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 彼女がまだ生きているかのごとく、完全に見せかけている点。途中の台詞でのタネ明かしで、グッときました。最後の締めも、よく響きます。 [一言] 面白かったです、ご馳走様。 ちょっと疑問に思っ…
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