32.田島永一(タジマ)2
高校を卒業したわたしは、東京へ赴いた。
ひたすら広がる都会の街。アスファルトとコンクリートに包まれた土壌。
排気ガスに覆われスモッグが立ち込める街に佇み、わたしは途方にくれた。
わたしは卒業前にしたためていた構想を専門のエージェント経由である情報処理会社へ打診し、業務契約を通していた。
当時のその会社はリサーチを主とした情報提供を行っており、社会的ビジネスとしては模索している状態であった。
そこでわたしの提案する構想に対して理解を示してくれたようだ。
わたしは金融系を始めとする企業全般の情報を電子化する事から実績をつけた。
入会申込書や売り上げ伝票を始めとして、確実に電子化できる事が理解されると、それに習って大手企業は業務提携を結ぶようになっていった。
250人のキーパンチャーに支えられて、大きな障害もなく会社は大きくなったのだ。
とはいえ、個人エージエントを通して契約していた身としては、何の見返りもないわけで、自然と次のフィールドを模索することとなる。
(一定以上の実績を生み出すようになれば、自社要員で賄うのは企業の摂理なのだ)
やがて実績を耳に挟んだ企業からわたしにオファーが打診される。
…そんなことを繰り返して、気がつくと結構な数の企業に抱えられて来たのだった。
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成田会長と出会ったのは4年前。
最初はエージェントを通じての依頼だった。
「家電業界の流通システムについてレクチャーを受けたい」それが会長との最初の仕事だった。
当時の会長は大量仕入れに対応する作業能力の壁に悩んでいた。
大手商社と違い、通常の仕入れには独自のインフラが存在せず、維持運営するにも資金が掛かりすぎるからだ。
独自の倉庫、輸送ルート、現地バイヤーなどが問題となる。
これらを複数の業者でシェアできればリスクは低くなると言うのが会長の考えだった。
この人は本物だと思った。具体的な構想を打ち出す会長にわたしは感服したのだ。
3ヶ月後、わたしはインターネット回線での流通管理システムを提案した。
受発注管理のためのプロトコル(通信手順)を手作りし、インターネットを介してやり取りし、独自のセンターで管理する方式だった。
(ちなみに、インターネットはIPとして規格が決まっている。位置づけとしては IP > 独自プロトコル と思っていただきたい)
これにより商品の買い付け状況、輸送状態、在庫の増減、商品価格変動などがセンター管理でき、商品群のレートまでもが安定管理できる事となる。
その上、複数の家電業者が互いに得意分野を提供することで恩恵は広がった。
バイヤーに強みのある者、流通に長ける者、備蓄容量に秀でた者など・・・
提供できる恩恵に応じて利用料金も格付けされる事で互いの提供サービスは濃密となり、安定した運用から低価格化が実現される事となったのだ。
一年の後、管理センターは業界のビジネスモデルとして世間から評価され、成田は業界屈指の企業へと飛躍した。
会長から正式に雇用したいと申し込まれたのはこの頃である。
「君の能力をわたしは信頼しますです。あんたの能力にわたしは賭ける。わが社を存分に活用して能力を広げてみてはくれまいか」
そのような経緯を経て、わたしは”N.A.”(ナリタ・エージェンシー)事務局長に就任した。
事業展開の土台として、過去の実績から金融システムコンサルタント主流の事業提携を各種企業と行った。
資金が安定したところで、自分の好きだった音楽事業にも参画を果たすことができた。
それは「海外アーティストマネージメント」だった。
当時から海外アーティストの大半はきちんとしたマネージメント遵守を契約の基盤として活動していたが、日本企業のほとんどはその契約の大切さを理解しようとはしなかった。
そんな理由から、リスクが少なくケアの手厚い日本窓口として当事業所は有名になっていったのだ。
(いったい誰が宿泊先の寝具の素材にまで対応が必要だと想像できただろうか)
やがて、毛色の異なる企業として音楽業界にも多様なブレーンが協力してくれるようになったのだ。
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わたしはある日、会長からこんな相談を受けた。
それは概念としての”流れ”であった。
”全ては正しい流れに沿って進むべき”それが会長の理念とされていた。
”流れの阻害された場所”から全ては腐ってしまうのだと。
例えば血流が阻害され、流れが滞ってしまうとその場所から腐ってしまう。
その結果「癌」に見られるような病気となるのではないか。私はその考えに賛成だった。
視点を変えれば”システム”もまた同じであったからだ。
正しく期日までに処理される流れの中で、企業によっては数百万件にも及ぶ伝票が処理されている。
ちょっとしたデータの不具合から障害が発生し、その日の決済が滞った結果として、
何億(企業によっては数百億)を超える決済不履行へと責任が広がることもあるのだ。
”正しい流れに沿って生きること”。それは幸せの一つではないかと、わたしは感じていた。
そのような経緯から、わたしは”環境”を主体とした事業を提案することとなる。