ステップ1,2
師匠がそっと背中をさする。温かい手のひらの感触に、少年の体が微かに震えた。
「大丈夫かい?」
やっと我に帰り
「…はい、大丈夫です。」
少年の呼吸が少しずつ落ち着きを取り戻していく。乱れていた精神の波が、凪いだ海のように静まっていくのが自分でも分かった。ふらつきながらも自力で立ち上がり、師匠に向かって深々と頭を垂れる。
「ありがとうございます。もう、俺の心が揺さぶられて暴走することは無いでしょう。」
今日は休もう。今日までは聞く側の制御。
明日からは発する側の修行に入るよ。
今までは精神が削られただけだったけど、次は肉体も削れる、長い戦いになる。
師匠はそう言うと、ふっと笑みを浮かべた。それは、弟子の成長を喜ぶ師の笑顔だった。
少年の顔に緊張が走る。「肉体も」。その言葉に含まれる過酷さを想像し、ごくりと喉を鳴らした。
顔を上げた少年の表情は、先ほどまでの激情が嘘のように晴れやかで、どこか達観したような、大人びた光を宿していた。
次の日から、修行の内容は一変した。瞑想や精神統一の時間は減り、代わりに書斎に籠る時間が大幅に増えた。師匠はどこからか集めてきた膨大な量の書物を少年の前に積み上げる。古今東西の哲学、物理学、生物学、医学、神学に至るまで、あらゆる学問がそこにはあった。
「ステップ1は知識を蓄えること!」
少年の力は、「言葉を現実にする力」であると同時に、「知識を現象として具現化させる力」でもある。その本質を深く理解するには、まず世界を構成する法則そのものを知らねばならなかった。少年の驚異的な集中力と記憶力は、まるで乾いたスポンジが水を吸うように、次々と知識を吸収していく。一冊読み終えるごとに、新たな知が彼の脳に刻み込まれ、それが力の精密な制御へと繋がっていく。
師匠はただ難解な専門書だけを与えるのではなかった。膨大な蔵書の中には、明らかに場違いな漫画や雑誌も巧妙に織り交ぜられていた。少年が眉間に皺を寄せながら難解な数式を解いていると、不意に隣に置かれた漫画の表紙が目に飛び込んでくる。
それは少年がかつて読んだことのある、冒険譚だったり、笑いあり涙ありの日常を描いたものだったりした。張り詰めた集中がふと途切れ、思わず苦笑が漏れたり、物語に引き込まれてしばし時間を忘れたりすることもあった。
師匠は知っていたのだろう。どんなに優れた知性も、休息なくしては光らないことを。この息抜きは単なる気晴らしではなく、固くなりがちな思考を柔軟にし、イメージの幅を広げるための、計算された訓練の一環でもあった。
「師匠、質問があるんですけど…。
この力を使って、魔法や魔獣と戦ったことありますか?
ほら、漫画みたいに異世界に行って戦ったり。」
大樹の目は輝いていた。難読書の哲学論に疲れ、最近読み始めたファンタジー漫画の影響だ。そこでは、詠唱した異能でドラゴンを倒す英雄が描かれていて、力の可能性を想像せずにはいられなかった。専門書の論理分析と、雑誌のSF記事が混ざり、頭の中で異世界の戦いが渦巻いていた。師匠は薪を突つき、ゆっくりと首を振った。表情は変わらず、だが声に微かな警戒が混じる。
「ない。異世界なんて、人の空想だよ。あの漫画や雑誌みたいに、華々しい冒険が待ってると思わない方がいい。俺の経験では、転移なんて試したこともない。
いや、試す価値がない。経験の無い願いはいつも歪む。君が『異世界へ』と願えば、叶うかもしれないが…。そこは空想の産物だ。歪んだ形で叶ったら、別の何かが怪物になるかもしれない。空気の比率が違うかもしれない。重力が10倍かもしれない。何が起こるか分からない。おすすめしない。この世界の制御を学ぼう。ここで。」
大樹は黙って本を閉じた。師匠の言葉は理屈っぽく、安全第一だ。だが、心の中で反発が湧いた。
(…師匠にも知らない事がある?)
この一瞬の疑問が、大樹の胸に火を灯した。師匠の限界を感じ、新たな思想が少しずつ形を成し始める。
数年の歳月が流れた。積み上げられた本は全て読破され、少年の頭の中には世界の理がほぼ完全にインプットされていた。
しかし、まだ足りない。
本で得た知識はあくまで理論。経験と、それを具体的に具現化するための鮮明なイメージがなければ、力はいともたやすく暴走し、願望は最悪の形で歪んでしまう。
その焦燥を見透かしたように、それまで黙っていた師匠は、ぱん!と景気良く手を叩いた。
「よし!ステップ2に行こう!」
師匠のその声は、新しい段階の始まりを告げる号砲のように、静かな山小屋に響き渡った。
少年の背筋がぴんと伸びる。「ステップ2」。その言葉に、心臓が高鳴るのが分かった。
「行ってらっしゃい!」
師匠はにこやかに手を振り、少年の背中を押した。覚悟を決めた少年は、一歩、前へ踏み出す。目の前に現れた黒い扉を、何のためらいもなくくぐり抜けた。
すると、そこに広がっていたのは、想像を絶する光景だった。
少年は広大な円形の空間の中央に立っていた。そして、彼を取り囲むようにして、無数の扉が等間隔に並んでいる。ざっと数えても数千、いや数万はあろうか。それらの扉にはそれぞれ、様々な分野を示す金色のプレートが掲げられていた。
扉の一つに近づき、そこに刻まれた文字を読む。
『物理学』
隣の扉には『化学』。そのまた隣には『生物学』、『天文学』、『地質学』、『人体』、『医学』、『神経学』、『薬理』…。
扉の列は果てしなく続き、『心理学・社会学』、『倫理』、『哲学』、『法律』、『歴史』、『美術』、『文学』、『音楽』、『建築』、『プログラミング』、『宇宙論』、『経済学』、『歴史』…と、人間が考えうるありとあらゆる知識体系が、そこに扉として存在していた。それぞれの扉からは、微かに知の気配が漂ってきている。
息を呑んだ。ここは、知識の概念が凝縮された場所。一冊の本で数年を要する知識もここでは一瞬で手に入るだろう。
「すごい…。」
圧倒的な光景に立ち尽くす少年の後ろで、入ってきたはずの黒い扉がすうっと消えていくのを彼は見た。
少年の心は決まった。まず、最も身近で根源的である『化学』の扉へと向かう。金属の取っ手はひんやりとしていたが、迷わずそれを捻り、扉を開けて中へ入った。
部屋の中は、先ほどの円形広場と同じく、どこまでも白い空虚な空間だった。部屋にはさらに扉が並んでいる。半透明のパネルがいくつも浮かび上がり、パネルにはそれぞれ、『水』『火』『風』『電気』等といった基本的な化学現象の概念が記されている。
少年の意識が『水』のパネルに触れると、パネルは光を放ち、台座の上にぽつんと一滴の水が現れた。
そして、冷たさ、潤い、蒸気、氷の冷たさ、硬さ、優しい感覚を肌で感じていった。
しかし、これはほんの入り口に過ぎなかった。
次第に部屋は水で満たされていく、水に浮かぶ浮遊感、肌が濡れる感覚、そして水で満たされた瞬間、目に水が入る痛み、水が肺に入る苦しみ、これが低体温症……そして溺れるということか…。
理解した瞬間目の前が暗転する。
そこには同じ『水』『火』『風』『電気』等のパネルがついた扉のある同じ空虚の空間に戻っていた。
そして、水のパネルがついた扉は少しずつ消えていった。
次は火だ…
火の部屋では、灼熱の空気が肺を焼いた。あらゆる温度の熱、爆発の衝撃、煤煙の息苦しさ、身体が燃え上がる絶叫するような痛みと恐怖。その全てを骨の髄まで刻み込むと、再び意識は途絶え、元の無限の書庫へと戻される。
彼は、狂ったように扉を開け続けた。風の部屋で呼吸ができなくなる感覚。雷の部屋で身体を貫く電撃。光の部屋で網膜が焼ける痛み。闇の部屋で永遠の孤独。
数え切れないほどの死と再生を経験した。少年の精神は摩耗しきっていたが、同時に、膨大な量の情報と感覚が彼の魂に焼き付けられていった。扉は彼が経験を終えるたびに、まるで役目を終えたかのように静かに消えていく。それが、経験が満たされた証なのか、それとも、この試練からの脱出が遠のいているだけなのかは、誰にも分からなかった。
火の部屋では、灼熱の空気が肺を焼いた。あらゆる温度の熱、爆発の衝撃、煤煙の息苦しさ、身体が燃え上がる絶叫するような痛みと恐怖。その全てを骨の髄まで刻み込むと、再び意識は途絶え、元の無限の扉の間へと戻される。
彼は、狂ったように扉を開け続けた。風の部屋で呼吸ができなくなる感覚。雷の部屋で身体を貫く電撃。光の部屋で網膜が焼ける痛み。闇の部屋で永遠の孤独。
数え切れないほどの死と再生を経験した。少年の精神は摩耗しきっていたが、同時に、膨大な量の情報と感覚が彼の魂に焼き付けられていった。扉は彼が経験を終えるたびに、まるで役目を終えたかのように静かに消えていく。それが、経験が満たされた証なのか、それとも、この試練からの脱出が遠のいているだけなのかは、誰にも分からなかった。
化学の扉の最後に入った電気の扉、静電気から始まり最後は感電をして意識が暗転する。
すると、2階層戻り、化学の扉は消えていった。
化学の階層を制覇し終えた少年の身体は、確かな手応えと共に、わずかな疲労感を覚えていた。数多の死を体験したというのに、肉体に目立った変化はない。だが、脳内に蓄積された知見は以前とは比較にならないほど深く、鋭利なものになっていた。
「………。」
彼はしばし沈黙し、消え去った扉があった空間を見つめた。次なる試練へと思考を巡らせる。視線を上げ、まだ無数に残る扉の列を見渡した。彼の目は、次に挑むべき対象を冷静に分析している。
物理学
生物学
数学
地学
天文学
医学
心理学
娯楽
スポーツ
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少年の指が、今度は無機質な金属光沢を放つ『物理学』の扉に吸い寄せられるように伸びた。万物の根幹を成す法則。それを理解することは、力を振るう上で避けては通れぬ道だと、彼は本能的に理解していた。
何時間、何日間経っただろうか。
大樹は、数え切れない扉を開き、数え切れない試練をくぐり抜けてきた。
物理学の法則、生物学の命の循環、数学の無限、天文学の宇宙……
すべての扉を、彼は制覇した。
すると来た時の黒い扉が現れた。
「やっと帰れる……。」
だが、ひとつだけ、まだ開かぬ扉が残っている。
薄暗く微かに光を放つその扉は、他のどれとも違う。
異国のような匂いを漂わせ、存在しているだけで空間の空気がざわつくようだ。
大樹は指を伸ばしかけて、ふと立ち止まる。
胸の奥に、これまで感じたことのない微かな緊張が走る。
「空想の扉……?」
扉は鍵が閉まっていた。大樹はその扉を後にし黒い扉で元の世界へ戻った。
黒い扁桃を通り抜けると、そこは元の薄暗い部屋だった。
埃っぽい空気、木の香り。時間は、全く進んでいなかった。
少年の体感では数世紀にも及ぶ旅路だったというのに、現実世界では、ほんの1時間しか経過していなかったのだ。テーブルの向こうで椅子に腰かけていた師匠が、本から顔を上げる。
「おかえり。」
その声は穏やかだったが、少年の疲弊しきった表情を見て、わずかに眉をひそめた。彼はすっと立ち上がると、戸棚からカップを二つ取り出し、手慣れた様子でコーヒーを淹れる準備を始めた。やがて、豆の香ばしい香りが室内に立ち込める。




