聞き流す傾聴
「よろしくお願いします、師匠。」
少年――大樹が頭を下げると、師匠と名乗った青年もとい師匠は厳かに頷いた。その瞬間二人の間に見えない契約が結ばれたかのようだった。
「よし!じゃあ早速始めるとしよう。
まずは知識を徹底的に叩き込む!」
師匠はそう言うと、山のような参考書を何も無いところから持ち出した。
同時にこれから少年を待ち受けるであろう過酷な運命を象徴しているかのようでもあった。
少年は、ごくりと唾を飲み込み、決意を固めた目でその膨大な参考書を見つめる。これが、終わりの見えない地獄の始まり。そして、唯一の希望へと続く道だと信じて。
師匠は持ち上げかけた本をぴたりと止め、何かを思い出したように少年を振り返った。
「おっとその前に……聞いただけで無意識に叶えてしまう力の制御が先だ。
会話もままならないんじゃ、修行にならないからね。」
師匠の視線が、真っ直ぐに少年を射抜く。試すような探るような目だった。
「何故自動で叶えてしまうか。
それは聞いた瞬間無意識に反芻しているから。
特に感情が強い言葉
自分の価値観に刺さる言葉
危険や不安を含む言葉
脳が「重要」と判断して自動で再生する。
これは無意識の自動処理。
君は好奇心旺盛で感受性も高い。
更に無限の記憶力のせいで無限に脳内で繰り返す。
反芻は“増幅”する性質がある。
これはとっても君の性格と忘れない力の相性が悪いんだ。
だから人の言葉ほど叶えやすいし歪みやすい。
ならどうしたらいいか、……対策は3つ。
1つ目は言葉を音や光として認識するイメージを持つこと。
なんか言われてもうるさいなぁくらいに思うイメージ。
2つ目は聞いたら即座に「なぜ?」と疑問に置き換え反芻を止めること。
思考と自分を切り離す技術。
3つ目は叶えるが目に見えない害のない形で叶えること。
燃えろと言われたら雑草に対象を変えちょっと焦げるレベルまで逆に歪めた形で叶えるみたいな。
俺が君に最初にあった時、いきなり消えろと言ったよね。
その時俺は1歩歩くだけでその場から消えたと歪めたり都合のいい解釈に変えて叶えたのと同じ感じ。
ただ3つ目は知識と経験を積んでコントロールできるようになった先で出来る技。
それまでは1と2を同時に訓練してもらう。
俺がなにかを呟く。
君は共感や反芻を絶対にせず、なぜ?と
願いから分析に置き換える。
これ出来ないと一生街に出られないからね。」
師匠の言葉を真剣に聞くと深呼吸してリラックスし始めた。共感や反芻は大樹の性格的に非常に難しいが頑張らなければいけない
「……分かった、やってみる。」
大樹の短い返事を聞くと、師匠は口の端を少しだけ持ち上げた。それは笑みというより、挑戦的な表情に近い。
「じゃあ早速始めようか。」
師匠はわざとらしく辺りを見回し、やがて空に向かって独り言のように呟いた。
「あーあ、雨でも降らないかなぁ?」
師匠が言葉を発した瞬間、大樹は必死に思考を巡らせた。「なぜ雨が降る必要があるのか?」しかし、長年染み付いた反応はそう簡単には消えない。「雨」という単語が脳内で反響し、強いイメージを結んでしまう。
すると、どうしたことか。雲一つない快晴だった空の一角に、突如として不気味な黒雲が渦を巻いて現れた。ゴロゴロと低い雷鳴が轟き、次の瞬間、滝のような大雨が一点――大樹の頭上だけに集中して降り注いだ。土砂降りという表現すら生ぬるい、まるで天から水の槍が降ってくるかのようだ。
突然の豪雨に視界を奪われ、息を呑む。冷たい水が容赦なく全身を打ちつけ、服は瞬く間に体に張り付いた。
「しまった…!」
思わず漏れた声は、激しい雨音にかき消されそうだった。失敗だ。あまりにも分かりやすい失敗に、悔しさがこみ上げる。
その日、奇妙な天気の山があった。麓から見上げれば穏やかな青空が広がっているのに対し、頂に近い一帯では、何度も局地的な豪雨と快晴が目まぐるしく入れ替わっていた。まるで意思を持った天候が、そこで何かに悪戦苦闘しているかのように。
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日が傾き始め、木々の影が長く伸びる頃には、少年――大樹はびしょ濡れの泥だらけで、肩で大きく息をしていた。何百回、いや、千回は繰り返しただろうか。頭では「なぜ?」と問い続けようとしても、ふとした瞬間に感情が言葉の響きに引っ張られてしまい、その度に空は気まぐれに荒れた。
もはや反論する気力もなく、ただ呆然と立ち尽くす。自分の力がこれほどまでに厄介で制御不能だという現実を、嫌というほど味わっていた。
「…はぁ……はぁ……」
師匠はそんな少年の様子を腕を組んで黙って見ていたが、やがて静かに口を開いた。
息も絶え絶えな少年を見て、師匠はやや口調を和らげた。叱責ではなく、労うような響きがそこにはあった。
「大分頑張ったね。そろそろもう、俺の声もただのノイズ、音として捉えられるようになってきたんじゃないかな?第1のステップ、言葉をただの音として捉えるイメージできてきたんじゃない?」
師匠はゆっくりと大樹に歩み寄り、その肩に手を置いた。
最初の頃に比べれば、雲の発生速度も雨の激しさも、だいぶバラつきが出てきた。
それは君が言葉に意識を向けず、逆にうまく流せたりした証拠だ。
疲れ果てて声も届かない。この感覚忘れないでね。
ただ、これじゃまともに会話できないから
次のステップ、言葉を分析に置き換えるのを意識しよう。
でも今日はもう疲れたでしょ。休もうか。
師匠の言葉に頷こうとしたのか、それともただ力を抜いただけだったのか。少年は何も言わず、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
限界だったのだろう。極度の疲労と、慣れない精神の酷使が一度に押し寄せ、彼の意識を刈り取った。ぐったりと横たわる体は、夕暮れの冷気の中でか細く上下している。
師匠――未来の大樹は、それを見て小さくため息をついた。だが、そこに呆れた様子はない。むしろ、どこか懐かしむような、それでいて厳しい光がその目に宿っていた。
「…初めてにしては、よくやったよ。」
彼は屈み込むと、いとも軽々と少年を肩へと担ぎ上げる。成人男性を運ぶには小柄な体躯だが、力の使い方を熟知しているのか、安定した足取りで小屋への帰路についた。
数日が過ぎた。山の斜面は、以前のような混乱した天変地異が嘘のように静まり返っている。滝壺のほとりに建つ小さな丸太小屋の中では、息詰まるような対話が続いていた。
少年の瞳は、かつてないほど澄み切っていた。向けられる言葉の刃をものともせず、静かな湖面のように師匠の姿を映している。罵詈雑言の嵐が吹き荒れる中、彼は微動だにしない。
「今すぐ首を吊れ!この石を食べろ!消えろ!お前なんて生きてる意味ない!死ね!」
怒声にも似た言葉の羅列が止む。しんと静まり返った室内に、薪ストーブのはぜる音だけが響く。
少年を試していた師匠の方が、ふっと肩の力が抜けるのが分かった。彼は驚きと感心が入り混じったような複雑な表情で少年を見つめている。
「……完璧だよ!
ここまでとは!正直、予想以上だよ。
もう俺が何を言っても、君には届かない。
おめでとう。完全にコツを掴んだね。
君はついに、無意識の傾聴から耳を塞ぐ術を身につけた!」
満面の笑みを浮かべる師匠とは対照的に、少年の表情は凪いだままだった。冷めているわけではない。ただ、己の課題を客観的に見据える、静かで強靭な意志がそこにはあった。
「いや、まだだ。
ちゃんと他の人からも試してみないと。」
師匠の興奮がすっと冷めていく。少年の言葉は、浮ついた空気を引き締めるには十分な重みを帯びていた。そうだ、これはまだ始まりに過ぎない。
「…その通りだよ。
俺一人の言葉に慣れたところで、何の意味もない。
世界には、もっとたくさんの人がいる。もっと予測不能な言葉を投げかけてくる。
じゃあ、次の段階に進もう。
明日から、少しずつ慣れてこう。
頑張ろうね。」
次の日、ネットの海で動画を見る。しかし暴言や誹謗中傷などは動画を見てる間にも飛び交っていたが特に何とも思わなかった
画面の中で繰り広げられる醜い言葉の応酬を眺めながら、少年の心は凪いでいた。「死ね」「消えろ」といった直接的な罵倒が飛び交っても、眉一つ動かない。
「うん、ネットは平気だ。」
隣で固唾を飲んで見守っていた師匠は、信じられないものを見るような目で少年を見た。
「本当に…?やるね!」
「じゃあこの動画はどう?」
次に師匠が指し示したのは、複数の人間が激しく意見をぶつけ合うライブチャットの画面だった。「お前の理論は破綻している!」「そのデータは古いんだよ!」――議論は白熱し、互いの主張を否定する言葉が矢継ぎ早に飛び交っている。
自分の価値観に刺さる言葉、罵詈雑言、自分の意見と食い違う言葉、何が来ても平気だった。
「大丈夫…かな。意見と食い違う言葉は割と来るけど。」
少年の平然とした答えに、師匠は感嘆の息を漏らした。彼自身も若い頃は、この手の議論に心をかき乱されたものだった。
「すごいね…。
普通はここで一番影響を受けやすいのに。
自分の信念を揺さぶられる言葉ほど、人は心を乱されるからね。
でも、君はそれを「なぜそう考えるのか」って冷静に分析できてるんだ。」
「よし、これなら次のステップもいけそうだ。
次はもっと現実的な場所に行こう。
準備はいい?」
次は居酒屋へ向かった。ここは平日ということもあり、社会人や大学生、オフィス勤めのサラリーマンで賑わっていた。
注文した酒と料理を持って席に座ると、誰かの声が聞こえてきた。
「おい、この会社の社長、マジでクソなんだぜ!今日も理不尽に怒鳴られたし!」
少年の目は、ジョッキに注がれたメロンソーダの泡を追っていた。周囲の喧騒は、まるで遠い国の祭りのように聞こえる。誰かの怒声が耳に届いても、それはただの通りすがりの音にしか感じられなかった。少年が気にする素振りは一切ない。
師匠も同じテーブルについていたが、「どうだ?」と言いたげな視線を送るまでもなく、少年の落ち着き払った態度に気づき、口の端を上げた。
2人とも酒ではなくメロンソーダを頼み、他の人からの雑談、文句、愚痴、悩みなどの声に全く惑わされず、周りの音をただの雑音と認識することに成功する
「…よし、大丈夫そうだ。」
メニューを眺めていた少年の視界の隅で、サラリーマン風の男がジョッキを片手に愚痴をこぼしているのが映る。「残業代も出ないのによぉ」「上司の顔が見てみたいぜ」――だが、それらは少年の思考に留まることなく、鼓膜を震わせるだけのただの振動にすぎなかった。
「…よし、ここは大丈夫そうだね。」
師匠もまた、運ばれてきた巨大なパフェにスプーンを突き立てながら満足げに頷く。周りからは、恋人たちの甘い囁きや、学生グループの甲高い笑い声、仕事の電話で声を荒らげる声などが聞こえてくるが、二人の世界は静謐そのものだった。
「よし!帰るか!次は最終試験だよ。」
居酒屋の賑わいを背に、少年の足取りは軽い。確かな手応えを感じていた。山奥の小屋へ戻りながら、師匠が口にした「最終試験」という言葉に、わずかな緊張と期待が胸をよぎる。
「最終試験…?一体、何をするんだ?」
「さて、最終試験…始めるよ。俺の眼を見て。」
師匠に促されるまま、少年の視界は、自分と瓜二つの顔に吸い込まれるように集中した。その瞬間、ぐにゃり、と世界が歪んだ。居酒屋の喧噪も、山道の景色も掻き消え、代わりに全く別の光景が目の前に現れる。
それは、記憶にはあるが実際には見たことの無い。大樹と化した若き日の父と母が並んで立っている。
「父さん!母さん!?」
目の前の両親は、実体を伴ってそこに立っていた。父親は必死の形相で少年の肩を掴み、母親は涙ながらにその手にすがりつく。温もりさえ伝わってきそうだ。
「……一緒に暮らそう。」
二人の声は、懇願と渇望に満ちている。世界を崩壊させた父の後悔と絶望、その傍らでただ暴走を嘆くことしかできなかった母の悲哀。それが、鮮烈な感情の奔流となって少年の精神に直接流れ込んでくる。
感情の激流に耐えきれず、少年は反芻してしまった。
(一緒に暮らす……父さんと母さんと……っ!!)
反芻と同時に、少年の存在は虚無へと飛んだ。
そこは光も音も存在しない、絶対的な無の世界。上下の感覚は失われ、自分が立っているのか浮いているのかさえ分からない。時間という概念すらないのか、一瞬が永遠に引き伸ばされ、過去と未来の境界が曖昧になる。少年の精神は、あまりに強すぎる願いから逃れるために、自らを世界の外側へと追放してしまったのだ。……父親と母親も巻き添えにして
両親と3人で暗闇と静寂が永劫に続くかと思われた、その瞬間。頭の中に直接、あの飄々とした声が響き渡った。
「やっちまったなぁ…」
その声が錨となり、少年の意識は急速に現実世界へ引っぱられる。次に目を開けた時、彼は元の山中に立っていた。
しかし、肉体は鉛のように重く、精神は激しい嵐が過ぎ去った後のように酷く消耗している。心臓が警鐘のように激しく脈打ち、呼吸は浅く速い。
目の前には、心配そうにこちらを覗き込む師匠の姿があった。彼は大樹の肩に手を置き、安堵のため息をつく。
「…大丈夫かい?今、君の精神が世界から弾き出されてた。
心を揺さぶられる程、冷静さを失う。
君はこの失敗を二度と忘れない。」
師匠は少年の顔をじっと見つめた。その瞳の奥に宿る光の強さを確かめようとするかのように。そして、ゆっくりと口を開いた。
「……もう1回チャレンジするかい?」
少年の答えは、即答だった。まだ息は整わない。精神が受けたダメージは決して軽くはないはずだ。それでも、彼の眼差しには先程までの動揺の色はなく、ただ純粋な決意だけが燃えていた。
「はい……、やらせてください。お願いします。」
少年の言葉と共に、膝が地面の土を踏んだ。そのまま深く頭を下げ、額が土に触れんばかりの勢いで懇願する。プライドも何もかも投げ打って、力を求めるその姿に、師匠は一瞬、息を呑んだ。
師匠はしゃがみ込み、少年の顔を上げさせようとはせずに、静かに、しかし力強く言った。
「その覚悟、確かに受け取ったよ。じゃあ頑張って。」
そう言い放った瞬間世界は変わった。またしても記憶の片隅にある光景、歪んだ世界平和が叶う直前だった。死にかけの皇輝と空腹で倒れている梨々愛、皇輝は食べ物にも困らない、紛争もない世界平和を願った。そして、生物たちは植物へと変わっていく。大勢の人達の助けという悲鳴が響く、そして両親にも魔の手が伸びる。両親の助けをひたすら大樹は黙って見つめている。涙を流しながら。
人々の断末魔の叫びが木霊する中、少年の体は石のように動かなかった。「助けて」――その言葉の一つ一つが魂を削る鋭利な刃となって突き刺さるのを、奥歯を噛み締めて耐える。
両親が緑の蔦に絡め取られていくその瞬間も、少年の目から涙は消えていた。いや、涙を流しながらも、その現象を冷徹なまでに観察していた。皮膚の下で何が起きている?細胞の変質か、それとも空間からの浸食か?なぜ植物に?思考を巡らせ、現象の原理を理解しようと努め、決して己の願望で塗り潰さぬよう、ひたすらに分析を続ける。
永遠にも思えた数分後、世界は再びノイズを走らせて元に戻った。山の空気、土の匂い、風の冷たさが肌に蘇る。少年の全身は冷や汗で濡れ、肩で大きく息をしていた。
師匠は、そんな少年の姿を静かな目で見つめていたが、「おめでとう」と、短く呟いた。そこには、からかいの響きも、試すような色もなかった。
師匠からの祝福の言葉は、もはや少年の耳には届いていなかった。
張り詰めていた糸がぷつりと切れ、堪えていたものが一気に溢れ出す。大粒の涙がぼろぼろと頬を伝い、土の上に染みを作っていく。
彼は膝をついたまま、焦点の合わない目でただぼんやりと虚空を見つめている。




