4-24 豪族の形
豪族の形
弥生期の集落では、かつての縄文の記憶により、災害の流れに流されるように回避や回復が繰り返されていた。
しかし、新しく来た渡来人達には、日本の国土の荒々しい自然の強さに大して、縄文の知恵が生きていたことを理解するものは少なかった。
南の国のように、巫女の力よりも占い師的にないがしろにするものが大半だった。
佐久の集落や川前の集落、先の集落では、縄文の巫女の祈りや力が、災害から身を守ってると感じていたが、直江津王国では、どうだったろうか。
南の国の策略で柏崎や使者たちが、来た時には、巫女の力と民の力が一体になり、発展しているとは、言っていたが、佐久の集落のような川の汎濫で小屋が埋もれてしまうようなこともなく、順調に水利の工夫も含め、米の収穫が伸びていた。
縄文の大岩を抱える春日山の巫女達も、形式的な祈りを続けるばかりで、佐久の巫女に助けられた事もわすれか、直江津王国としての支配の構造の中に埋没し、民を従える形式的な儀式として、巫女の形が変化していったのである。
直江津王国では、支配の力の所長としての巫女の儀式を民にみせつけ、より支配の構造を高めるのであった。
地域的に近い柏崎や長岡でも、一旦は、豪族的な支配を進めていたが、柏崎では、南の国の動きで直江津王国へは敵わないとなってしまい、長岡でも支援を受けるなど豪族としての力を示せず、自然と直江津王国の属国的な地位に落ちていった。
2つの属国は、今度は自主的にコメや魚の干物など自分達の収穫物を納めて、守ってもらう方向の支配構造に変更していたのである。
人の気持ちの不安定さを露呈していた。
力の上下が見えてきたのであった。
そして、秋が来て、収穫が始まり、冬には、雪で覆われる直江津王国は、南の国に対した時の気持ちは、既に、忘れてしまっていた。柏崎や長岡の弥生集落たちに対して、王族としての親戚付き合いではなく、力の差が示す支配構造に変わっていったのであった。
本当の意味で王国になってきていたのである。
春日山の巫女は、形式的な儀式をするだけの存在になっていた。
オヤジたちは、夏の洪水を経て、より地域の情報の収集に向けて走り回り、その年の秋を経て、翌年の春先にも尋ね。
直江津や柏崎、長岡の動きを見て、理解していたのであった。
佐久の集落では、長と先代と巫女たちが集まり、今後の動きを検討していた。
特に、春日山の巫女に対する気持ちに大きな変化があったようである。
佐久の集落では、昨年の夏の洪水被害は、結果的に稲穂の水田は埋没したが、秋になり、収穫に変化は起きなかった。そして、翌年には、開墾し、新たな田植えが始まると、不思議と収穫が増えていき、集落の力も増していくのであった。
こちらは、巫女が浅間の婆様たちと話し合い、縄文の自然の力を取り入れた暮らしが整い始めていた。




