1-2 渡来人の入植と発展
渡来人の入植と発展
渡来人たちと縄文の若者たちの交流は、意外と早く進みました。
朝鮮半島からやって来た渡来人たちは、大陸で培った様々な専門知識がありました。しかし彼らも、方言や出自がバラバラで言葉は一つでは無かったのです。
ですから、縄文の若者たちとの意思疎通は、最初は身振り手振りを交えた「見様見真似」のやり取りから始まりました。
それでも、互いの気持ちをぶつけ合いながら交流は進み、やがて渡来人の高度な知見が、縄文の若者たちを導く形になっていきました。
縄文の若者たちは、もともと植物や季節ごとの様子に強い関心がありました。
そこで、渡来人は、大陸での知見があり、若者達の興味を引きました。それに農耕の知識を加え、新たな食料をもたらす方法があることに、大きく刺激されていったのであります。
一方で、縄文の若者たちが日々使っている小動物用の罠は、渡来人にとって新鮮で、彼らもまた学ぶ姿勢を見せるのでした。
こうして双方の知識が交わり、交流は深まっていきました。
やがて縄文の若者たちは、渡来人が春日山の麓に暮らしたいという気持ちを理解して森から木を運び、小屋づくりを手伝うようになります。
まず平地に穴を掘って建物の位置を定め、そこに石を置いて柱を立て、梁を組み、壁を作り、土で隙間をふさいでいく。こうして建てられた建物は、最初は貯蔵庫であり、同時に神殿としての役割も果たしました。後には、貯蔵庫と神殿は別々の建物として整えられていきます。
そして周囲には、4〜5人が暮らせる小屋が次々と建てられました。縄文の若者たちも森を離れ、渡来人と共に暮らすようになり、やがて混血が進んでいきます。
春日山の麓には、湧水が豊富で、湿地帯が広がっていました。
渡来人の中には大陸で農耕を経験した者もおり、彼らは持参した苗を準備していたので、馬を使った田んぼの耕作を始めます。
田んぼづくりや米作りは、とにかく人手が必要です。共同作業なしには成り立ちません。2年、3年と時が経つうちに、米作りは安定し、集落の生活基盤となっていきました。
また、大陸での争いを逃れてきた者の中には、刀や槍を携えていた者もいました。しかしそれらの武器は叩き潰され、農具へと作り替えられます。争いの道具が、土地を耕す道具へと姿を変えたのです。
時が経つにつれ、指導する者、農耕に従事する者といった役割の違いが生まれ、やがて階層が形成されます。
こうして春日山の麓の集落は発展し、後には「直江津王国」と呼ばれるようになるのでした。




