1-1 直江津王国の始まりとその後
直江津王国の始まりとその後
紀元前5世紀頃、突然、現れた大きな船。
この船は朝鮮半島から出港し日本海に出て、いきなり直江津付近の頸城川に到着したのであった。
彼らは征服しに来たのではなく、中国大陸の戦乱から逃れてきて、新天地を目指して来たものであった。
その頃の日本には、まだまだ縄文期の集落が点在し、平地は、暮らしにくい場所であり、暮らす人はいなかった。
新天地を目指した渡来人達は、春日山の麓を見て、ここだと思い頸城川(関川)に上陸したのであります。
この物語の大きなキッカケを作ったのは、やってきた渡来人の一人が、縄文巫女のグループにたどり着き、交流ができた事であった。
会話は、通じなかったが、見様見真似であったが、巫女が渡来人を受け入れた。
彼女のリーダー的な権威があったので、近くに居住していた縄文の若者が協力し、交流が始まったのである。
渡来人達には様々な能力のある者達が集まっていて、石を置いて柱を建て、土壁を構築し、苗を育て、湿原を耕し水田にして、米作りを始めることになった。渡来人達は馬も引き連れていて、農耕に使うとか、刀や槍を潰して農具に活用して、協力してくれた縄文の若者たちを指導していくのであった。
米は、順調に育成され、食料が安定すると、子供たちを共同で育成したりして、人口が増え始め、混血が広がり弥生期の集落となったのである。
この集落では、階級が生まれていた。
上陸してきた渡来人のリーダーは、権威を与えられ王として扱われた。そして、指導するものや手伝うものが生まれたのである。
これまでの縄文の世界には、無かったものであった。
しかし、巫女が関わり、自然神の存在が権威を高め、王のあり方が神格化していく。その中で自然に人の上下が生まれ、管理する者、支配され働く者が生まれたのである。
縄文期の集落は少数の人数で各地に点在しており、それが各地に縄文のネットワークのように広がっていた。
そのいわゆる縄文ネットワークを使う、移動する縄文グループが複数いて、品物のやり取りや情報のやり取りがあり、社会の変化にも柔軟に対応していたのである。
つまり、弥生期の集落は縄文期の集落に比べて大きな違いが生まれていたが、移動グループの力で平準化していったと考えられます。
それは、縄文期にはなかった王的な存在も地域の特殊性として理解されたと考えられたのである。
こうして春日山の麓に出来た弥生集落は、直江津王国と呼ばれるようになったのである。
一方、紀元前5世紀より前、頸城川の右岸では、ウラジオストークよりも北側の狩猟民が日本海を漂着し、一つの村で救われ、別の渡来人との交流が生まれ、発展していったのである。
彼らは、ナイフ持ち、狩猟や川の鞣しなどの変化や工夫も地域の得意性として受け止められることになるのであった。
新たに発達した直江津王国は、人口が膨らみ大きな問題が起きていた。
その時、解決策として縄文ネットワークを理解していたグループの一つが、直江津王国に進言して、長野盆地への移住を申し出ることになった。
妙高から野尻湖を経て信濃町を通り、長野盆地へ移住することになった。これが、紀元前3世紀頃である。
そして、千曲川を発見した移住者は、人口を増やし、集落を増やし、さらに佐久平まで至り、大きな集落を作ることになった。
長野盆地や佐久平の弥生期の集落は、直江津王国の下に生まれた集落として、発展し、米の余剰生産物を今度は縄文ネットワークを理解していたグループが、直江津王国へ献上することになるのである。




