プロローグ
この痛みだけが、俺をまだ人間でいさせてくれた。
ジリジリと燃えるような痛みなのに、それが俺が生きていることを肯定していた。
いつだって、幸せは唐突に崩れる。
でもいつだって、幸せは唐突に現れる。
壁が白い。床は少し青みがかっているものの、やはり白い。でも入り口に取り付けられたドアだけは薄くても茶色と呼べる。
真っ白なベッドに、俺は寝転がって天井を見つめていた。特に考えることもないので、虚無な時間が過ぎていく。もうそろそろ来る時間だな。
「GAー09番、朝食の時間だ」
いつもと全く同じ時間にやってきて、いつもと全く同じ冷たく吐き捨てるようなトーン。俺は扉の方へ目をやった。
白い白衣に身を包んだ監査官が立っている。予想通りだ。ため息をひとつ吐いて、大人しく部屋の外へ出た。
几帳面に揃えられた長方形の窓の外には青々と繁茂する芝生がある。そこには俺と同じように白い長袖に白い長ズボンを履いたやつが監査官と話している。でもどうせ事務連絡だ。
ドアに取り付けられた小窓からはそれぞれの部屋の様子を見ることができる。でもそんなに面白いものではない。みんな同じような体勢なのだから。
白い壁に、白いタイルの張り巡らされた床。照明まで白とくれば誰でも飽きてくるはずなのに、不思議と文句を言う奴は誰もいない。これ、本当に食堂なのだろうか。
指定の位置へ座り、食事が配給される。コトンと置かれたパック詰めのゼリーだ。俺としては無味すぎて美味しいとは到底思えないのだが、隣に同じように腰掛けている奴はただ無表情にそれを両手でしっかりと握って吸っている。
テーブルには椅子が6つ。全て埋まっている。俺と全く同じ服装をしたやつで。
俺以外は無言でただゼリーを吸い続けているが、さすがに飽きてきた俺は吐き気が込み上げてきた。
最近俺はどうもこの施設に不信感を抱いている。気づけばこの施設にいた身ではあるが、なんで俺らは同じ服なのだろう。同じ食事、同じ睡眠時間なのだろう。
不満を誰も漏らさないのだろう。
だが俺は一応、監査官の指示に従っている。はやく『卒業』したいからだ。この『アカデミー』を。
この世界には管理局が存在する。人々のバイタルや交通など、ありとあらゆる情報を所持して、より良い世界を築いてくれるやつらの集まりだ。
俺たちの存在を肯定し、ゆりかごから墓場まで、一生を共にする組織。それが管理局。
アカデミーは、その管理局直属の施設である。一定の学力や運動能力を認められれば、晴れて管理局に勤めることができるのだ。
だから俺の目標は、はやくこんなとこ卒業して、管理局で自由に暮らすことなのである。
ただし、さすがにこんな長い間アカデミーにいると、精神もすり減っていってしまうのだ。
「運動の時間だ。走れ」
芝生の校庭に駆り出されるやいなや、今日もその合図。とりあえず走ってみるものの、流石にすぐ飽きる。ずっと同じ景色の繰り返しなのだから。
俺はここにいる年数が長い。今までにいろんな奴が入学し、卒業していった。でもそいつらはみんな、瞳に生気のない、つまらないやつだった。俺が史上初の「つまらなくない卒業生」になってやる。
ふと気づけば、校庭の隅に猫が座ってこちらを見ている。きっとどこからか入ってきた野良猫だ。
猫なんて久しぶりに見たな、と思いつつ、無意識に駆け寄る。誰も気にする奴がいないからだ。
薄汚れた黒い猫。だが痩せている印象はなく、俺が近づいても逃げない。どっかの家から迷い込んでしまったのだろうか。
「…迷子か?」
もちろん猫なので返答はない。だが、そんな時、俺の肩が強い力で掴まれた。
「お前、何をしている?」
監査官だ。鋭い眼差しが俺を貫く。
「野良猫を見つけました。どこかへ戻してあげてください」
そう言って猫を持ち上げる。すると監査官がとても低い声のトーンで俺に言った。
「…やっぱりお前か」
「は?」
「ついてこい」
監査官は俺に背を向けてどこかに行ってしまう。猫の場所を知っているのだろうか。確かに俺の活動場所は限られている。
退屈な運動をサボれるということも相まって、足が動いてしまった。
黒猫に手を出してしまった。
連れてこられたのはいつものテストルーム。ここも全て白。よく俺も自分の服と部屋を識別できるよなと思う。奥行きなんてよく分からない。
猫は監督が抱えて、俺だけが閉じ込められた。
いつもなら机と椅子があり学力を測られたり、謎の検査器具を使って運動能力を測られたりする。今日は本当に何もない。何かあった方が空間を認識しやすいのに。
『GAー09番、なぜ猫の方へ行った』
どこからかスピーカーを通したような声が聞こえる。明らかにイラついている。
「…そこにいたからですかね」
『指示は聞いていたのか?』
「はい。走るんですよね」
『猫を助けるだなんて、非効率だとは思えなかったのか?』
「…俺の走るような指示より、あの猫の方を優先するべきだと思いました。まわりは誰も動かねえし」
すると声は途絶えてしまう。珍しく言い負かせたのか?
だが次に聞こえた声は、呆れと失望が混じっていた。
『私はお前を入学当時から見ている。最初は素直でこちらの指示もよく聞くやつだったのに…。最近は勉学も伸び悩み、運動も真面目に行わない。能力があるというアドバンテージも、最近は使用を拒絶する。使用しても日に日に弱くなる一方。もう10年だ。いつまでここに蔓延るつもりだ』
「………」
勉学は単純に難しくなった。そこは認める。だが運動は毎日同じものを用意するそっちの責任だし、能力に至っては体がジリジリと痛むから行いたくないのだ。弱くなってるんじゃない。
『…もういい。お前には『卒業』してもらう』
「えっ、マジか」
『…管理局以外にな』
「は……?」
『お前には『データ』ごと消えてもらう。その上で、とある部署へ異動してもらう』
データごと消える。つまり、この世界から存在ごと消える。『GAー09』は死ぬんだ。
「ふざけんな…。俺は本部に行くんだ。こんなところ抜け出してやるんだよ!」
『残念だったな。管理局はお前のような合理性に欠けたやつは好みじゃないようだぞ』
するといきなり扉が開かれ、黒い戦闘服のようなものを着た2人組が俺の方へ近づいてくる。片手には銃を引っ提げて。
本能が勝てないと悟ったのか、抵抗という文字は浮かばない。
両手首を拘束され、そのまま俺は長い長い廊下を歩いて行った。
およそ10年ぶりに、アカデミーの外に出た。
街は白くないんだな、市民は白い服じゃないんだなと思いながら、車の外を眺め続ける。というか乗り物に乗るのも初めてだった。17年も生きているのに。
アカデミーにいると、電車もバスも塀の外の乗り物なのだ。
渡された情報によると、俺は一応管理局に入れたらしい。ただ、部署が違うだけで。
最初は安堵したが、俺が目指した本部の大きな白いビルが遠ざかって行くのを見て、本当に夢は叶わなかったことを知った。
するといきなり街中で車を下ろされ、ここで待機するように告げられる。内心少し驚きながらも待ってみると、ふと誰かが俺の肩にポンと手を置いた。
「あなたが、GAー09番ですか?」
「…ああ」
肩につかない程度伸びた髪に、グレーのジャケット、ショートパンツ。黒いインナー。ふわふわとした髪は肩の上あたりで切られている。全く顔色が変わらない女だった。
「案内します、ついてきてください」
そう言って女は歩き出す。またロクでもない場所に連れて行かれるんじゃないかと思ったが、なんせまわりは知らない場所。ついて行くしかないのだった。
特に会話もせず、一定のテンポで女は歩く。とある建物の前で立ち止まった。そこだけ時間が止まったんじゃないかと思えるほど古びた雑居ビル。
明らかに怪しい。ここがあの管理局の支部だとは想像できない。
女はスタスタと中に入っていってしまった。
コツコツと鳴る階段を登り、薄暗い通路を渡る。女は最奥の扉に鍵を差し込み、ガチャリと音を響かせた。
「そういえば、言っていませんでした。私は零。よろしく」
「よろしく…」
ギイイと扉が軋み、俺は支部へ足を踏み入れてしまった。
「あ、新入りくんだー!」
扉を開ければリビングのような空間に直結しており、テレビとソファの間で知らない女が跳ねている。
「おっ!ついに来たねー!」
サングラス片手にソファに悠々と座る男。
「昼ごはんは食べた?」
キッチンに立つ、髪の長い女。
「………だれ?」
なぜか床に寝そべっている男。
少なくともそこに、俺の知っている管理局のイメージは微塵もなかった。普通の一般的な家だと言われた方がまだ信じられる。
「こっちです」
その中でも零という女はスタスタと進んでしまうためこいつらに構っている暇はなく、廊下へ向かう。
両サイドに部屋が並び、1番手前の扉を零はノックした。すぐに入ってもいいと低く特徴的な声が返ってくる。
零に促されるがままに、ドアノブを握った。
その部屋は、確かに管理局のようだった。
多数のモニターとタブレット、電子機器の数々。だが部屋の中央には春なのにこたつが置かれ、なぜかスーパーの特売チラシも散乱している。
声の主はそのこたつの前に座り、俺を見上げた。
「新入りか。俺は岳。一応ここのリーダーだ。よろしく」
「…よろしく」
明らかにリーダーに見えない。けどその男はハッキリと俺の目を見ていた。
「ようこそ、『Error 404』へ」
俺はもう、どこにも存在していないらしい。けど、ここには存在しているらしい。
あんまりこういう話書かないので、多少の粗は許してください…




