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終章

1584年11月 近江国 坂本城


 葉は終わり 芝はみのにと 刈り取らる 逐電ちくでんせねば 身の終わり也


 可児川での一戦後、そんな戯れ歌が京都では流行った(出どころは明智光秀と連歌で親しんでいた連中である)。羽柴逐電守はしばちくでんのかみという直球の罵倒もあった。長久手合戦は救援に行く途中で諦めた形だったが、可児川合戦は秀吉本人が敗走を余儀なくされたから、更に政治的ダメージが大きかった。


 秀吉の判断に最大の影響を与えたのは北条氏の直接参戦であり、戦いが織田家中・織田同盟家の内輪揉めから、完全に日の本を東西に割るものに発展したことを意識せざるを得なかった。まあ、すでに長宗我部や毛利、上杉などは直接的に絡んでいたが。

 先月には佐々成政により前田利家領の末森城も陥落しており、秀吉は西国を固める時間が欲しくなった。惟住(丹羽)長秀の口添えもあった。皮肉にも秀吉が手柄を立てさせまいとした結果、彼は無傷であり続けて、陣営内での影響力をましている。


 そこで秀吉と家康、天下の主宰者をあらそう戦は、おおむね越中、飛騨、美濃、尾張より東を徳川家康が管轄し、西側を羽柴秀吉が管轄する形で和議となった。秀吉派の上杉景勝は抗議したが、徳川がいくらか譲歩したことで沈黙を余儀なくされた。西側に分類される長宗我部元親も同様である。

 これは誰の目からみても一時凌ぎのもので、何事もなければ――具体的にはマグニチュード8規模の内陸大地震とか――そのうち、戦争は再開される。その時は関ヶ原あたりで決戦が行われるものと物見高い者たちは見ていた。


 織田信雄は名目上は両者の上に君臨することとされていた。彼は伊勢と伊賀を失った代わりに、三法師の名代という体裁で美濃と近江半国を手に入れたが、前者はともかく後者を実効支配するのは困難に思われた。

 しかし、明智光秀が正体を明かして――これまでの派手な活動で隠しきれなくなったとも言う――縁のある近江支配の口添えをしたことで織田信雄の権威が少しずつ行き渡りはじめた。

 父と兄の仇に力を借りることにもちろん懊悩はあったようだが、兄弟の信孝を殺しておいて言うことか、開き直れと光秀は叱咤した。



 外交僧の天海として近江の坂本城まで羽柴秀吉に呼ばれた明智光秀は、謀殺も覚悟のうえで茶室に入った。茶を点てる千利休と光秀は目語で挨拶を交わした。

 茶頭を入れて三人しかいない茶会であった。


「まさかお主が生きておったとはな……」

「金ヶ崎の退き口に比べれば、何ほどのこともござらん」

「さもあろう……」


 光秀の堅い物言いに秀吉は色々なことを考えた。暗殺を警戒して緊張している、信長への恨み言をいまさら漏らしている、謀反を正当化するつもりか、共に金ヶ崎で戦った自分に共感を求めている、同格の織田家重臣であったことを強調して同格の立場で話そうとしている。

 わざわざ懐に飛び込んで来たのだから、まずは言いたいことを言わせてやろう。

 そう考えて水を向ける。


「これだけは聞いておきたいが……お主なぜ上様を裏切った?」


 信長のことを上様と呼ぶわりには、あまり敬意を感じさせない口調で秀吉は尋ねた。天海の正体を知った誰もが聞きたがる質問だった。光秀も多少うんざりしているが、相手が秀吉となれば話は別である。

 茶を一服して口を滑らかにすると語りはじめる。


「嫌気が差したのじゃ」

「上様に仕えることにか?」

「そうでもあるし、そうでもない。仕えた先のことよ」


 信長の気分一つで、苦心して手に入れた領地は取り上げられ、遠くに替えられる。他国との同盟関係もご破産にされる。今回我慢しても、またいつ理不尽な目に遭わされるか分かったものではない。これで最後の保証がない。

 天下が近づくほど理不尽で強権的になる主君との関係に深く思い悩んだ光秀は憂いの元を断ち切ることにした。



「長宗我部のことか」

「岩村城のことを覚えておるか」


 光秀は秀吉の質問に質問で返した。


「上様が自らの叔母上を磔にしたあの……」

「それだけではない。武田に与した遠山一族もことごとく殺められた……」

 その中には光秀にとって近しい人物も含まれていた。情勢から止むなく武田についた者も多かった。そもそも情勢を悪化させたのは先手を打って織田・武田に両属していた岩村城に手を出した織田信長である。


「おのおのの事情を意に介さず雑にまとめて殺める。部外者にはそれが力強く見えることもあるかもしれぬが、犠牲になる方はたまったものではない」


 信長の手足となってその手の虐殺行為に加担した光秀に言われたくないかもしれないが、秀吉にも同じことをする片鱗が見えると、光秀は思っていた。具体的には対立した甥の家族をなんの慈悲もなく鏖にするとか。

 だからそんなところまで信長の後を追わないように命がけで釘を刺しておきたかった。



「しかし……お主、欲を出したなあ」

「むろん、天下への欲はあったが」

「そうではのうて、身を起こしはじめた頃を考えれば、上様の指先一つで吹き飛ばされて当然の身であったろうに、そうではないことを求めるようになってしまったことよ」


 長い沈黙。


「……その欲をそれがしに与えたのはお主の上様よ」

「やはりそういうことになるか……」


 信長の与えた希望が、信長の行動で絶望に転換した。希望を適度にもたせて叶えてやれないなら、徹底的に絶望させていた方が謀反の恐れはないのかもしれない。

 だが、そんな人使いの体制では勢力拡大はおろか領国の維持もおぼつかない。すべてが静止した戦のない時代なら人に希望をもたせない社会も成り立つかもしれないが……。

 秀吉がポツリと漏らす。


「天下取りとはままならぬものよの」


「フ……それを語らうのにそれがし以上の適任者はおらぬでしょうな」


 微笑み、少し口調を改めて光秀が答えた。胸の内で「生きている人間で」と付け加えている。彼が死んでいたら天下をめざす秀吉や家康は死んだ信長の幻影に答えの来ない問いかけを繰り返すしかなかったかもしれない。足利義昭も存命だが、新しい世を創るのに、彼の助言では役に立たぬ。

 光秀は思った。

(生き延びた甲斐があったか……)


 ずっと後になって、この会話を聞き知った宣教師は手記に「土岐殿は羽柴殿の頭上にダモクレスの剣を吊るしたのである」と記したという。

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