第六段階:決戦!可児川の戦い
総数一万を超える金山城攻囲軍は大半が西に向きを変える。木曽川が南に湾曲して山地や可児川との距離を縮める場所に陣を敷いた。右の端を木曽川で守り、左の端は身隠山という古墳のある丘に接している。もし十分な時間があれば古墳は城に改装されてしまったことだろう。
木曽川と身隠山の間を西に流れる可児川は戦列が跨ぐ形になる。木曽川と可児川の中間には上恵土城がある。土塁を巡らせた平城ながら複郭ではあり、守りの拠り所として非常に頼りになった。
金山城への押さえには遠山勢の一部を残し、右翼と中央は菅沼定利ひきいる信濃衆が、左翼は東濃の諸将が受け持つ。石川数正は遊軍を連れて中央後方で待機する。
明智光秀は一隊を率いることを熱望した。石川数正にこれを認められて左翼後方において近隣で集めた兵を預かる。木曽川北岸、飛騨川との合流地点付近にも山村良勝の軽快な別働隊が配置されて、木曽川北岸の羽柴勢が飛騨川を東に渡ってくるのを防ぐ役目を任されていた。
もっとも敵が飛騨川を渡河しても金山城に至るためには更に木曽川を南に渡る必要があった。そのせいもあって、飛騨川西岸にいる羽柴勢別働隊(主力は病床に伏している筒井順慶から指揮を引き継いたばかりの養子、筒井定次)の動きは緩慢であった。もっと積極的な連中は徳川本隊や織田勢の押さえに回されていた。
四千を数える織田勢は身隠山がある山系の向こう側(久々利城もそこにある)に来ているのだが、間に入った敵軍――堀秀政らの隊――によって合流を妨げられていた。山中を通って使者の往来は可能であった。
さらに西(戦場全体で見れば南)では家康の軍勢一万六千が谷となく尾根となく展開して北への突破を図る素振りを見せていた。それを防ごうと躍起になった羽柴勢は、高山右近などの隊も阻止に送り込み、相当の注意力と兵力を南に割かれていた。だが、それこそが家康の本当の狙いだったのである。
大将と主力が寄せ集めの別働隊を活かすために本気で陽動をやっているのだ。こんな奇策は読めない。
むしろ秀吉は家康が出てくる前にと、ますます別働隊の撃破を急ぐ気持ちになった。木曽川北岸の味方には期待せず、木曽川と可児川の間に軍勢を進ませる。先鋒は稲葉一鉄らの西美濃衆だ。蒲生賦秀らの近江衆が後に続く。
迎え撃つ徳川勢は上恵土城の両翼に簡易的な壕と土塁をかき上げていた。さらに上恵土城の南西にある三つの古墳「前波の三ツ塚」、南にある丸い古墳も明智光秀の指南で陣城に改造されている。
「それでも能見の長塁には及ばぬが……」
石川数正が気遣わしげに呟く。陣地に籠もった徳川勢は数の差を物ともしないしぶとさを発揮する。天正壬午の乱で能見の長塁を築いて北条の軍勢とやりあった時、そして小牧山城に籠もっての戦いでも、それが活かされてきた。
前衛は徳川領に組み込まれて日の浅い者たちが多いけれども、同様の精神が発揮されることを期待した。いざとなれば石川数正の手勢が機動防御を行えばいい。松平の時代から三河兵の血に刻まれた戦い方である。
「東国には江戸城なる名城があると聞くが、ここの城は上恵土城。エド城の上じゃ!安心して戦うがええ!」
気休めと知りつつも、そんなことを言ってみる石川数正だった。後方の北東から南西の方向に崖のある段丘上でも第二線陣地が構築されはじめていた。
上恵土城主、長谷川五郎右衛門を森長可が自害に追い込んだ関係もあって、近隣住民は普請への動員に協力的だった。しかも、金のためとか、脅されてとか、仮に徳川勢が敗れても合戦後に住民が森家に言い訳できる理由が光秀によって整えられている。
負けた時のことを考えるなんて縁起が悪いなんて批判は、史上に残る大敗を経験した彼には通じなかった。
一方、東や南の前線から一里(約四キロメートル)内外の等距離にある禅台寺の高台に本陣を構えた羽柴勢本隊では、
「佐吉や、どうみる?」
秀吉が面白がって、側に控える石田三成に聞いてきた。若輩の三成は(自分はこんな場所で意見できるほどの立場ではない)と思ったが、主君の求めとあらば止むなく、
「あの山(身隠山)の向こうに敵が伏せていて、お味方の横合いを突くのを狙っているように思案します」と意見を述べた。
「ふうむ……」
そんなことはとっくに予想の内に入れていたであろう秀吉は、
「だが、それには可児川がかえって邪魔になるぞ」
と指摘した。戦場を東西に流れる可児川は、羽柴勢が戦線の北側を突破すれば右側面を守ってくれるだろう。
「それは……」
「まあ、味方には用心するように申しておこう」
(小さな袋の口を閉じるようなものじゃ。油断して身隠山の向こうに誘い込まれなければ問題はない。織田が動けば中くらいの袋、徳川本隊が動けば大きな袋かのう)
やはり最も警戒するべきは徳川家康。そう秀吉は結論づけた。
そもそも羽柴勢は潤沢な兵力を活かして身隠山そのものを占領しようと動き出していた。山系の南側には小さな羽崎城があり、久々利城を落とした徳川勢が金山城に迫る途中で占領していた。
まずはここに古田重勝の部隊が襲いかかる。何度か抵抗した後に、寡兵の城兵は山中に撤退する――までは羽柴勢にとって順調であったが、敵を追いかけて踏み込んだ先が地獄であった。
明智光秀が地元の兵を率いて手ぐすねを引いて待ち構えていた。彼らは山地を平地のように移動し、敵を思う場所に誘い込んでは十字砲火で討ち取った。なんら加工をされていない山を巧みな縄張りで構築された城のように使いこなした。
古田重勝は舌を巻く。
「楠木正成の戦いぶりは、このようなものであったかもしれぬな……」
何百回となくこの山で鷹狩や巻狩をしなければ不可能と思える動きだ。あるいは子供の頃に虫でも求めて駆け回るか……。
古田勢はやむなく後退、味方に援軍を要請した。だが、敵は素直な後退を許す相手ではない。そのまま追いかけてきて更なる打撃を古田勢に加えると共に、一隊は織田信雄勢と対峙する堀秀政らの後方に進出して鉄砲を撃ちかけた。
織田勢はこの作戦を事前に知らされていた。
「いまぞ!押し出せ!!」
信雄はここが面目の施しどころと、顔を朱く染めて命じた。父の小姓だった堀秀政などに止められてなるものか。さらに卑しい生まれの羽柴秀吉に膝を屈するなどもってのほかだ。
大将の意地に煽られて三千の織田勢は愚直なまでに勇ましい突撃を開始する。
「うろたえるな!羽崎城が敵方なのは元々織り込み済みだ!味方は多い。後ろの敵は山から出てこれぬぞ!」
旧主家の猛攻に直面した堀秀政は(長久手に続いてまた外れ籤を引いた)と感じたことは、おくびにも出さず。手勢を叱咤激励する。勢いにのる織田勢を撃破するのは難しいが、足止めをして味方の側面を守る役目はまだまだ果たせる。
自信を持って采配を振るう大将をみて、兵たちも冷静さを取り戻した。堀久太郎についていけば間違いない。
秀吉は黒田官兵衛に話しかけた。
「この戦場、どこかに似ておると思わぬか?」
「はて……関ヶ――壬申の乱でしょうか?」
「いやさ、我らが経験した戦のはず」
その時、秀吉の目は身隠山に翻る桔梗の旗を捉えた。土岐一族の旗だ。水色ではないが、それをみて思い出す。
「ほうか!山崎じゃ!!山崎の戦じゃ!!」
徳川家康が布陣する南まで含めて考えればまるで似ていないが、金山攻囲軍が陣取った東側だけを切り取ると、形勢は山崎の戦いに似ているところがあった。
「ほんなら、あの山が天王山か。虎之介(加藤清正)らをあれへ向かわせよ。淀……木曽川の際には池田(照政)と加藤(光泰)を走らせよ!」
俗に言う賤ケ岳七本槍。出世の階段を登りはじめた加藤清正、福島正則、加藤嘉明らの若者たちが古田重勝の援軍要請に応える形で勢いよく飛び出していく。
山崎の戦いで淀川沿いを強行突破して秀吉に勝利をもたらした池田勢も家老、伊木忠次指揮のもと、長久手の雪辱を遂げ、かつての栄光を再現しようと突っ込んでいく。なお、加藤光泰勢は配置が遠すぎて言われた場所に向かうのは非現実的だった。
明智光秀は七本槍も老練な指揮で散々に翻弄したが、恐れを知らない若さを前に織田勢の支援をする余裕を失っていった。可児川北の戦線も押し込まれ、戦線は石川数正が用意した段丘崖の第二防衛線に移行しつつあった。
「おのれ!ここまでか――我の力で戦局を動かせるのは」
光秀は家康が用意した「保険」に最後の勝機を委ねるしかないことが悔しかった。
秀吉が「これで負けはない」と確信していた頃、高所から戦場を見渡せる金山城は大騒動になっていた。
「打って出るしかあるまい!筑前殿に急を知らせねば我らは破滅じゃ!」
今回ばかりは森忠政の意見に反対する者はいなかった。城の囲みに残った遠山勢との攻防が繰り広げられていた「米蔵」の大手口から森勢が突出した。しかし、明知遠山勢は攻めるふりをして出撃阻止の陣地を構築していた。彼らは集中射撃で敵の突撃を粉砕する。
もし、本隊が敗れれば金山城に斬り込んで死ぬつもりで残っていた遠山一行は哄笑した。
「見たか長可!この血しぶきが目に入らぬかっ!?」
前のめりに倒れ伏した森勢の頭が向いた先では大量の川舟が木曽川を下って行った。金山湊からは石川数正についていた奥平信昌の手勢も乗船する。
同様に飛騨川を南下する川舟もある。満を持して上流で密かに待機していた木曽義昌、小笠原貞慶、三木自綱らの援軍が新しく参戦したのだった。木曽義昌と小笠原貞慶は酷く不仲であるため、隣に上陸しないように配慮されている。
「そう来おったか!?」
完全に意表を突かれた。秀吉たちは川に対して地形障壁としての認識が強すぎた。思い返せば、そう仕向けられていた気もする。全てはここで羽柴勢を罠に掛けるため。徳川家康の執念深さを思い知らされた。
木曽まで味方につけたのに木曽川を使わずに、もっぱら陸路で侵攻してきたのは、この奥の手を隠すためだったのか。
もちろん羽柴勢も川を渡るための舟は用意してあったが、上流を抑えられている関係もあって、大船団の行動を妨害する力はなかった。渡河を妨害し合うために最初から木曽川に浮かんでいた敵の舟もある。それを突破して川下りの船団を止められる状況ではない。
家康は三河一国を支配していた時から独自に水軍を運用していたが、秀吉は織田の一軍団を指揮する近年までの立場では水軍の運用には深く関われなかった。此度の戦では九鬼嘉隆に三河沿岸を襲撃させたりはしているが、海と川では違うと思い込んでしまったのは、経験の差が如実に現れたとも言える。
もしも秀吉が、上流の山から木を切り出して組み立て川をくだらせて一夜で城を建てるなんて破天荒な経験をしていたら、これすら予見できたであろうが……。
「北条まで出張って来よったかっ!」
木曽川方面から来る船団の中には三ツ鱗の旗を立てた舟が少数ながら混じっていた。彼らは東濃での戦局を知り、羽柴との戦いに参加することを決断したのだ。
秀吉に今後の戦いがますます厳しくなることを痛感させる参戦であった。木曽川南岸に布陣していた味方は次々と側面に攻撃を受け、後ろに回り込まれる。池田勢が長久手に続いてまたもや壊滅的な打撃を受けた。混乱の波及をみて徳川・織田連合軍全体が攻勢を強めてくる。
戦線が完全に崩壊すれば羽柴勢が壊滅しかねない事態となった。
「まだじゃ!落ち着いて見よ!川から来る敵は(羽柴勢から見れば)小勢ぞ!後備を投じれば引き分けに持ち……」
「ご注進!丹波守(羽柴秀勝)様が卒倒された由!丹波守様を後送し家老が指揮を取ると……」
肝心の後備を率いる羽柴秀勝は体調不良が続いていた(翌年には病死する)。本人の要望を受け入れて連れてくるのではなかったと秀吉は後悔した。それよりも、この戦況で後送するのは拙い――この戦況だから秀勝に意識がない状態で戦闘に巻き込まれるのを避けたいのだろうが。
あわてて引き止める使者を送るが、これがかえって周囲の耳目を集めてしまう。
「秀勝勢が逃げるぞ!」
「裏崩れじゃっ!!」
すかさず織田や徳川の送り込んだ間者が囃し立てる。羽柴勢にますます動揺が広がる。羽柴秀勝が織田信長の実子――信勝の弟であることも、将兵の憶測を煽った。
そして誰よりも長久手で失態を演じた三好信吉が、秀吉の後継者候補としてライバルである羽柴秀勝の裏崩れを信じたがっていた。秀吉は身内の心に気が回らない男である。
体調不良もあってこのような事態は予測できていなかった。この時、最初に「本当の裏崩れ」を起こしたのは三好信吉隊であった。
「ええい、又左(前田利家)ではあるまいに!」
賤ヶ岳の戦いで前田利家が戦線離脱をして、柴田勢の敗北を決定づけた現象が、今度は羽柴秀吉の身に降りかかろうとしていた。
もはや組織的抵抗力が残っているうちに戦線を離脱するしか生き残る手段は残されていない。
兵さえ多くを失わなければ、まだ羽柴は十分に戦える。山崎合戦時の明智光秀とは地力が違うのだ。
「ここは捲土重来を期しましょう」
采を強く握りしめすぎて拳を震わせる羽柴秀吉に、黒田官兵衛がそっと進言した。この場に蜂須賀正勝がいれば、彼に言ってもらったのだが、大坂城で留守を務めていて不在であった。
天下で最大の軍を率いる大将は、力を落とすように頷いて、軍師の進言を受け入れるより他になかった。
こうして、後詰めの軍に見捨てられた金山城は炎上。残った森一族もろとも滅びた。
「父上の後を追ったか……」
織田信雄が金山城に炎上する安土城の姿を重ねて、ぽろりとこぼした。




