第五段階(二):決戦場への進出
やはり羽柴勢の行軍は妨害を受けた。あらかじめ行軍経路を予想していた明智光秀の指南によって、織田信雄配下の忍が道の上に木を切り倒し、ぬかるみを増やし、遠くから鉄砲の音を轟かせる。
少しでも前を行く兵の足が止まれば、大軍であるだけに遅延が後方に波及して、時間の損失がどんどん大きくなる。
しかし、秀吉軍団の城をも水没させる土木力は健在であった。道路に施された細工はまたたく間に修復され、軍勢が遮二無二突き進んでいく。
隘路の出口、可児川対岸にあらかじめ布陣できていた徳川兵は少数であり、羽柴勢前衛をつとめる堀秀政勢に蹴散らされた。近くにある可児川南岸の土田城が曲がりなりにも羽柴方に留まっていることも影響した。
金山城を攻めながら土田城も攻めるのは二兎を追う行為だと、徳川勢は判断したようであった。
ただし、森長可に土田城を燃やされた旧城主の生駒氏は、長久手合戦から長可の首を持ち帰る家臣たちを妨害しており、彼らは今回の行軍に関しても織田の忍と協力して羽柴勢の移動を妨害した。森長可のツケを支払う人物が森家の外側にまで拡大した瞬間である。
敵の動きを察知した小牧山の徳川・織田連合軍二万も東に戦場を求めて行動を開始した。
秀吉との決戦を期する家康は領国の十五歳以上六十歳以下の男子に軍事動員を掛けており、長久手の時よりもその戦力を増大させていた。動員された素人兵は大半が城の守りに残され、代わりに余裕のできた城兵が遠征に連れて行かれる。
連合軍はまずは小牧山城から東北東に進んで羽柴勢の遮断線を突破、土岐川流域を目指す。内津峠を越える際は、地元の農民に賃金を出して荷車を押させた。彼らは農閑期に焼き物を積んだ荷車を一家総出で内津峠まで押し上げている。今回は代わりに武具や兵糧を積んでの雇われ仕事となった。
その様子を横目にみた家康は(人生とはかようなものかもしれぬのう)などと慨嘆し、(わしに一緒に荷車を押してくれる家族がおっただろうか)と正妻と嫡男を思い出して嘆いたりもした。
口にすれば家臣が「我らがおりまする」と言ってくれただろうが(そういうのじゃないんだよな~)という気分はどうしても拭いきれない。
たまに一族の規模としてはつましい羽柴秀吉すら羨ましく思う時がある。まあ、松平一門の多さを思えば贅沢な悩みであろう。多少心理的な距離があっても、生母も異父兄弟たちも健在である。
内津峠を降りたら北上して信濃・東濃勢が制圧した地域を進めば金山城の近くに出られる――のだが、根本城の東を通り、今城や大森城の近くを通過する最短ルートは、これらの城が制圧できていないため妨害を受ける恐れがあった。ちょうど長久手の戦いで羽柴の中入り軍が岩崎城から攻撃を受けたように。
もっと東の久々利城辺りまで進出するルートなら懸念はないが、明らかに遠回りになってしまう。ひとまず織田信雄の手勢三千がこちらを目指すことになった。徳川家康自らが率いる三河軍団一万七千はあえて敵城の直下を突っ切る道を選んだ。
根本城に関しては多少は成算がある。森長可に降った根本城主の若尾氏は元々、甲斐の出である。武田の勢力がこの辺りまで伸びてきた時期に根本城を築城、麓には屋敷を構えて、勢力の扶植を試みた。
結局は織田の勢いに飲み込まれることになったが、武田の最盛期を裏付ける生き証人が根本城である。
そんな城を、武田を滅ぼすのに大活躍した森長可の家に支配させたままで良いのか。武田遺臣の一人である大久保長安などを通じて、若尾一族を煽りまくった。
おかげで根本城は一枚岩になって動けるような状態ではない。その確信があったから東の麓を堂々と通過できたのであった。
大森城については、同じようには行かない。こちらも元城主の奥村氏は森長可に攻撃されて城を追われているのだが、よりにもよって前田利家を頼って加賀へ落ち延びている。前田利家は羽柴方であり、いくら居城を取り戻したくても世話になっている相手に弓を引ける人間は少ない。
さらに大森川を挟んだ大森城の向かい側にも吹ヶ洞砦が構えられて、両城の間の通過を困難にしていた――徳川軍の本隊は大森城の西の姫川沿いを北上するつもりだったが、東にいる味方との連携を考えても大森・吹ヶ洞の城砦は邪魔である。大森川の筋には酒井忠次の別働隊三千が派遣された。
本隊が通る姫川筋の方も今城に側背を晒すことになり、あまり落ち着ける場所ではない。しかも、土田まで出てきた羽柴勢の一部(蜂屋頼隆勢)は姫川より西にある横市川の谷筋を南下して今城に進出する機会を伺っていた。
とはいえ、家康を敵に回して下手に突出すれば手酷くやられる危険がある。羽柴勢はそれを長久手の経験から意識せざるを得ない。おかげで彼らの行動は牽制に留まってしまっていた。しかし、羽柴秀吉は徳川本隊の木曽川流域進出が遅れているとみるや、可児川支流の谷間に軍勢を次々と送り込んできた。
大森城周辺などは賤ケ岳の戦いにおける柴田勝家の野戦築城もかくやと思わせる姿に作り変えようとしていた。大森城と吹ヶ洞との間の平地には両者を結ぶように土居(土塁)が築かれはじめる。
正面から守りに徹して向き合うのなら徳川家康が相手でも配下で抑え込める。織田信雄などは問題にならない。
秀吉はそう読んで矛先を金山城攻囲軍に向けた。攻囲軍は無謀にも撤退を選ばず、抵抗をつづける金山城を後方に抱えたまま、羽柴軍主力に向き合おうとしていた。
「ほうけおったか?」
(あるいは金山(森家)は本当に裏切っておるやもしれぬな)と、それに否定的な情報をいくつも受け取っているのに、いまだ疑いつつ秀吉は確実に敵を屠る方法を探った。
一方の徳川家康は遠く北方に開戦の音を聞いた。
(筑前めが、これを儂との戦と思っておるなら、愉快なことになりそうじゃ)
一度負けた相手が再起して復讐の策を練り立ちはだかっている。それを再挑戦されている側が自覚していない。とくれば、復讐者の側がかなり有利になる。
家康は石川数正に出来るかぎり明智光秀の望むようにしてやれと伝えていた。家の命運を突然現れた裏切り者に委ねようと言うのだから、彼もとんでもない博奕打ちだった。もっとも、光秀が負けても自分が大負けにならない手は打ってある。




