第五段階(一):羽柴勢東進
1584年7月 美濃国 岐阜城
「まったく情けなや。森もずいぶんと落ちぶれたものよのう……」
羽柴秀吉は悩んでいた。自身は暑気あたりによる体調不良で思うように動けないのだが――7月15日には激しい腹痛に襲われた――このまま森家が同盟から脱落すれば東濃に打ち込まれた羽柴方の楔が消滅する。
戦略的に戦線をまっすぐに整理されてしまうと大軍の利を活かしづらい。まだ佐々の後方で蠢動する上杉景勝のような味方はいたが、陸路で繋がっている森家ほどスムーズな連携を取れる相手ではなかった。
厄介な森長可の討ち死にまでは歓迎できても森家の滅亡までは歓迎できない。ならば援軍を送って梃入れするしかないのだが、徳川勢の進撃はあまりに急で金山城に防御に十分な兵を入れる形での救援は間に合わなくなってしまった。
それどころか敵は可児川流域、木曽川南岸と支配範囲を広めつつある。
(解せんなあ……)
秀吉は顎に手を添えて首をひねる。
敵の動きは完全に地理を知り尽くしている。いや、地理だけではなく現地の文化風俗人間関係歴史まで知悉している。そして、直に顔が利く。さもなくば、ここまで容易く形勢がひっくり返ることはない。
(近在の勢力とはもうせ、妻木や遠山だけで出来る芸当かや?どうやら斎藤の旧臣にまで声を掛けておる。家康の元に土岐(頼芸)の小倅がおるとは聞くが、土岐嫡流の地元はとっくに西美濃であろうし……)
何者かの暗躍を感じる。あるいは金山(森家)が水面下では裏切っていて秀吉を東濃の戦場に誘い込もうとしているのか?
秀吉のブレーンたちは天海なる地元出身らしき外交僧が徳川のために動き回っていることまでは察知していた。しかし、その経歴までは明らかに出来ていなかった。もちろん、似たような仕事を徳川や織田のためにしている人間は一人ではなく、明智光秀の存在はその中に埋没してしまっていた。
秀吉は不安を覚えたが最早、東濃の戦況を放置することは出来なかった(本来は高山城の時点で出馬するべきだった)。長久手では甥の三好信吉を派遣して失敗した以上、次に動くべきは弟の小一郎(長秀)でなければ、大将の自分自身であろう。
長秀と彼が率いる軍勢には、これまでに多くの任務を課しており、一旦休息を与えたものの疲弊しているのは否めない。
あるいは北陸から呼びよせた惟住(丹羽)長秀ならば格も実力も申し分ないが、羽柴氏の覇権確立のためには手柄を立てさせたくない。そうでなければ、経験不足の三好信吉などを中入り軍の大将にするものか。
やはり、ここは自ら動くのが相応しい。雑賀・根来の衆と交戦している和泉の戦況も気にかかり、不安はあるけれども、懐かしさに胸が躍り上がる感覚もある。織田信長の配下として尾張から美濃への進出を何度も試みた時代の若さが、自分の中に蘇ってくる。それが体調不良を吹き飛ばしてくれることを期待しよう。
秀吉は呼びつけた黒田官兵衛にせかせかと話した。
「官兵衛。全軍をあげて金山へ参るぞ!」
軍師は静かに首肯した。
「大井戸を徳川に押さえさせるわけには参りませぬからな」
その昔、承久の乱において金山の西方にある大井戸(土田)では朝廷と幕府の激突があった。東から来た幕府軍が木曽川を盾にした朝廷軍を破っている。ここで負けた側のポジションに立って戦うのは、いささか縁起が悪い。武士なら気にするジンクスであった。
秀吉は苦笑する。
「たわけが。我らは木曽川の南から(美濃に)出るわ」
尾張において羽柴勢は木曽川の南側まで進出している。わざわざ木曽川を渡り直して東に進むつもりはない。確かに右側面を徳川に晒す危険はあったが、善師野の山間部を抜けて可児川流域に飛び出すつもりであった(とはいえ大軍であることを活かして――大軍であるから道が渋滞する問題もあって――別働隊には木曽川の北岸を進ませる)。
小牧山城にある徳川・織田の軍勢は、金山に向かおうとすれば、羽柴勢より遠回りを強いられる。賤ヶ岳で見せた疾風の如き機動力が発揮できれば、金山攻囲の陣を破壊してから、あわてて駆けつける徳川本隊に向き直り、圧倒的な兵力で料理することも可能であろう。
敵が周辺の地理を良く把握していることを決して失念したわけではないが、まずは最良の展開を目標とした。秀吉の指示を受けるや、すぐさま楽田城や犬山城から羽柴勢が北東へむけて行軍を開始する。弟の羽柴秀長には三万の兵を預けて尾張の留守を任せた。
七万もの大軍が東濃へ向かう。




