ラヴィニア戦役回顧録
大陸暦1814年、冬。
かつて大陸中央部の肥沃な土地を治めて栄華を極めたラヴィニア公国は、今やその版図の九割を喪失し、最後に残されたのは北部の峻厳な山岳地帯のみとなった。
東方の大国・ノイシュタット帝国による「鉄槌作戦」の発動より三年。圧倒的な国力差に対し、ラヴィニア軍は奇跡的な遅滞戦闘を続けてきたが、それも限界を迎えようとしていた。
北の要衝、ヴォルグ要塞。帝国軍による連日の砲撃で白亜の城壁は煤け、至る所が崩落した様は見る者の脳裏に敗北の到来を想起させる。
ラヴィニア軍の守将マルク・ベルグマン准将は、執務室の窓から眼下に広がる黒い軍勢を睨む。帝国の紋章である双頭の黒鷲の旗が雪原を埋め尽くすように翻っていた。
「第三堡塁の弾薬が尽きました! 南側の河川敷より敵工兵隊が接近中。架橋を試みております」
泥と煤にまみれた伝令の報告を聞き、ベルグマンは無精髭を撫でる。その視線が手元の地図に移された。
ベルグマンは「ラヴィニアの銀狼」と渾名される名将だった。特に寡兵をもって大軍をあしらうことにかけては天才的であり、公国軍がこの絶望的な籠城戦を三ヶ月も維持してきたのは、ひとえに彼の指揮によるものだ。
「工兵を近づけさせるな、と言いたいところだが、こちらの砲も過熱して使い物にならんか」
ベルグマンの声は冷静だ。彼に敗者の悲壮感はない。あるのは職人として仕事を成し遂げるための冷徹な計算だけだ。
「第四水門を開け。貯水池の水をすべて放流する」
傍らに立つ副官のシュタイン大尉が息を呑む。
「閣下、下流の村落ごと敵を押し流すことになります。あそこにはまだ避難しきれていない領民が……」
シュタインはベルグマンの瞳に射抜かれた。彼の瞳は凍てつく冬の湖のように暗く、深い。己の指令が意味するところなど彼は重々に承知していた。
「敵の架橋を許せば本日中にヴォルグが落ちる。ヴォルグが落ちれば、公国すべてが奴らの足元で蹂躙されるのだ。私は指令を出したぞ、シュタイン」
「……はッ。直ちに」
寒気よりもなお冷たいものを感じながら、顔を蒼白にしたシュタインは敬礼をして走り去った。
ベルグマンは窓枠を強く握りしめた。非道な決断だ。後世の歴史家は自分を虐殺者と呼ぶかもしれない。だが、感情に流されて国をみすみす破滅させるわけにはいかなかった。
彼の使命は、ヴォルグ要塞の死守だ。
たとえ勝利が不可能であっても敵により多くの出血を強要する。その傷をもって講和のテーブルにおける一粒の砂金を贖うのだ。
それが沈みゆくラヴィニアの民への餞となるだろう。
やがて地響きと共に濁流が雪原を切り裂いた。
帝国の工兵隊、そして護衛の前衛歩兵大隊が、真冬の冷たい泥水に飲み込まれていく。流れは留まることなくさらに低地へとひた走る。
その光景を、ベルグマンは表情を変えずに見つめていた。
「これで三日。……いや、相手があの男なら、二日か」
***
ノイシュタット帝国軍本営、天幕の中では帝国軍総司令官ハインリヒ・フォン・クロイツァー元帥が、湯気の立つコーヒーを啜っていた。
鉄槌作戦を描き出した彼の軍略は兵に対する感情を徹底的に排除し、戦争を単純な物流と火力の関数として扱う、敵味方から「鋼鉄の数式」と畏怖されるものである。
「先遣隊より報告。ラヴィニア軍の水計により、工兵大隊が壊滅。架橋資材の七割を喪失しました」
参謀長の報告にもクロイツァーは眉一つ動かさず、どこか上機嫌ですらあった。
「相変わらず合理的な男だ。自国民ごと我が軍を流すとはな」
公国軍の抵抗はクロイツァーに知的な喜びをもたらしていた。騎士道を越えた先にこそ真の戦争がある。
「感傷で数万の民を救う機会を捨てるより、数百を殺して数万を生かす可能性に賭けた。見事だ」
クロイツァーは立ち上がり、巨大な作戦図の前へ歩み寄った。
ノイシュタット軍はラヴィニア軍の約十倍の規模だ。それも物資は無尽蔵、兵站はしっかりと抑えられ、兵員の士気は高まるばかり。対するベルグマンは孤立無援の要塞で、食料も弾薬も尽きかけている。
それでもクロイツァーは決してベルグマンを侮らなかった。不用意な突撃を行えば、必ず手痛いしっぺ返しを食らうことを知っていたからだ。
かつての会戦で、クロイツァーはベルグマンの奇策によって師団一つを瓦解させられた経験があった。
参謀長もまたクロイツァーの副官らしく、無感動に上官を見つめている。
「架橋資材の再調達には一週間かかります」
「待つ必要はない。ベルグマンは我々が『橋を架け直す』と思っている。あるいは『水が引くのを待つ』と。その時間を稼ぐための水攻めだ」
クロイツァーは地図上の、要塞の側面にある切り立った崖を指し示した。
「第一、第二重砲兵連隊をここに展開させろ」
「しかし閣下、そこは道なき急斜面です。あのような場所に攻城砲を引き上げるなど、馬の背が折れます」
「馬が折れれば人が引け。人が潰れれば新しい兵を送れ。死体を足掛かりとせよ。要塞正面の泥沼に足を取られている間に、この崖上から要塞内部を直接砲撃する。角度からして城壁の内側にある兵舎と弾薬庫が丸見えになるはずだ」
それはあまりに無慈悲な消耗戦の提案だった。重砲を山に上げるためだけに何百人の兵士が疲労と事故で死ぬ。クロイツァーの計算盤の上では正面突破でベルグマンの罠にかかるよりも遥かに損害が少なかった。
「ベルグマンよ。貴官が地形を利用するなら、私は物量で地形そのものを変えてしまうとしよう」
クロイツァーの瞳には熱い敬意の炎が宿っていた。彼にとってこの戦争はベルグマンとの対話だ。言葉ではなく、鉄と血を用いた、至高の知恵比べ。
悲しい哉、この対話の終焉は刻一刻と迫っている。
***
――ヴォルグ要塞司令部、南側監視塔。
寒気が肺腑を刺す胸壁で、ベルグマンは白と黒に塗り分けられた戦場を見下ろした。先日の水計によって作り出した泥の海。凍りかけた泥濘のところどころに、帝国の工兵たちが捨てていった架橋資材が覗いている。
「正面、動きありません」
監視兵の声には疲労の色と共に微かな安堵が滲んでいた。
「ああ。あの泥沼は、あと二日は凍りつかない。歩兵が足を入れれば膝まで沈み、その時には我が軍の狙撃兵の良い的だ。クロイツァーといえど、ここを正面から抜く愚は犯さないだろう」
ベルグマンは手袋を外し、凍えた指先に息を吹きかけた。ここまでは計算通りだ。
ヴォルグ要塞は、南を河川、東を湿地帯、そして北と西を峻厳な岩山「北壁」に囲まれた天然の要害である。唯一の攻略口となる南面を泥沼に変えた今、要塞の防御は完全な状態にあるはずだった。
「……静かですね」
傍らに立つ連隊長が不安げに眉を寄せた。堰を切ってすべてを押し流した濁流の轟音が今も耳の奥に残っているのに、戦場は不気味なほどの沈黙で満ちている。
「敵は数万の大軍です。あれ以来、陽動砲撃すら止んでいる。まるで何かを待っているかのような……」
「兵站の再編だろう」
ベルグマンは努めて平静に答えたが、胸の奥では警鐘が鳴り続けていた。
クロイツァーは「待つ」男ではない。彼は時間を最も貴重な資源と捉えている。その彼が、沈黙しているのだ。
ベルグマンの脳裏には克明に地図が浮かび上がり、その視線がノルトヴァントに向けられた。標高差三百メートル、傾斜七十度の断崖絶壁。山羊ですら足場に迷う険しい岩肌だ。
あり得ない、とベルグマンは頭を振る。過去の戦史においてもノルトヴァントの巨壁を越えて攻め込まれた例は存在しない。だからこそベルグマンは北の防備を最小限にし、全火力を南面に集中させていた。
「……そう、あり得ないんだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
あそこを登るには、装備を捨てて素手で挑むしかない。小銃を持った歩兵が数人よじ登ったところで弾が切れれば終わりだ。ましてや城壁を砕くような重火器など、上げられるはずがない。
物理的に不可能だ。重力という絶対の法則が、ラヴィニアの味方をしている。
ベルグマンはそう結論づけようとした。背筋を這い上がる悪寒は凍りついた泥濘が放つ冷気のせいだろう。
しかし彼は望遠鏡を手に取り、あえて安全であるはずのノルトヴァントの稜線へとレンズを向けた。
数時間後、要塞司令部にて。
「北壁に敵影確認!」
「馬鹿な、山岳猟兵か? 小銃程度なら無視しろ!」
飛び込んできた伝令の報告を、参謀が怒鳴りつける。ベルグマンは動かなかった。彼は聞いていたのだ。風に乗って運ばれてくる、重い金属が岩を削る音と、男たちの絶叫を。
「猟兵ではない。クロイツァーめ……『雷』を持ってきやがった」
その瞬間、ヴォルグ要塞が震えた。
腹に響く重低音が空気を震わせる。要塞の中央に位置する兵糧庫が、内側から弾けたように爆発した。石材と木片が空高く舞い上がり、黒い雨となって降り注ぐ。
「馬鹿なッ……奴ら、どうやって……」
司令部が凍りつく。着弾地点は城壁の内側だ。南からの砲撃では絶対に届かない、要塞の心臓部。
それが意味することは一つしかない。
仰角修正、次弾装填。ベルグマンには敵の観測手の声すら聞こえてきそうな気がした。
「ノルトヴァントだ」
ベルグマンは窓に寄り、双眼鏡を向ける。登攀不可能であるはずの岩棚に、黒々とした砲口が並んでいるのが見えた。
一つではない。四門、六門……まだ増えている。あんな場所に。あんな足場のない断崖に。どうやって。
「天よ、この期に及んで奴らに味方するのか!?」
シュタインが悲鳴のような声を上げる。人の手ではあり得ない、はずだった。だがベルグマンは理解した。
帝国軍は天を味方につけて物理法則に逆らったのではない。至極単純なことだった。戦略と呼ぶまでもない。クロイツァーは人間を滑車の一部として消費し、血も涙もない、純粋な算術的暴力で物理法則をねじ伏せたのだ。
ベルグマンが身を切る思いで水門を開いたように、クロイツァーはただ目覚めに髭を剃るような気軽さで、自軍の兵士という犠牲を支払って致命の一撃を購ったのだ。
「第三、第四砲塔、北へ回せ! 崖上の敵砲兵を叩け!」
「だ、駄目です! こちらの砲の仰角が足りません! あそこは高すぎます!」
「くそッ……!」
一方的に撃ち下ろされる。こちらは手も足も出ない。城壁は横からの衝撃には強いが、上からの打撃には無力だ。
公国が誇る難攻不落の要塞が、ただの石造りの処刑場へと変わった瞬間だった。
――同時刻、北壁岩棚、臨時砲兵陣地。
強風が吹き荒れる岩棚の上で、クロイツァーはヴォルグ要塞を見下ろしていた。
まるで小さな箱庭だ。堅牢な城壁も複雑な塹壕線も、すべてが暴露されて意味を失う。公国兵が蟻のように逃げ惑い、弾薬庫から巨大な火柱が上がった。
「第一目標、兵舎および弾薬庫、破壊確認!」
砲兵長が叫ぶ。軍服は無残に破れて指先も凍傷で黒ずんでいるが、その目には残酷な達成感が宿っていた。不可能を可能にしたという自負、そして死した仲間の無念を弾丸として敵に打ち尽くすという怨念の炎。
「よろしい。第二目標、南の水門制御施設へ照準」
クロイツァーは静かに命じた。
制御を破壊すれば再び水門が降りて水が引く。正面からの本隊突入が可能になる。もはやそのような手順は必要なかったが、クロイツァーが求めるのは完膚なきまでの勝利であった。
これでベルグマンの水計も終わる。
双眼鏡越しに、崩れゆく司令塔の窓辺に立つ人影が見えた気がした。ベルグマンだろうか。
彼は今、何を思っているのだろう。クロイツァーの冷酷さを罵っているだろうか? 否、彼がそのように無粋な男ではないとクロイツァーは理解していた。
おそらく今頃は己の敗北の計算式を解き終えて、次の一手を考えているはずだ。どうすれば最も敵に出血を強要できるのか、どうすれば最も敗北の価値を高められるのか。
「見事な守りだったよ、ベルグマン」
クロイツァーの囁き声は砲声に掻き消された。
「だが、戦争はチェスではない。結局は盤をひっくり返す膂力のある者が勝つのだ」
無情なる執念の一撃はラヴィニアの誇り高き最後の希望を粉砕した。
瓦礫が崩れ落ちる音が、一つの時代の終わりを告げる鐘の音のようにノルトヴァントに響き渡る。
***
三日後。ヴォルグ要塞は文字通りの地獄と化していた。
予想外の死角、断崖絶壁からの重砲撃により、要塞の主要な機能は停止した。弾薬庫は吹き飛び、公国の頼みであった堅固な城壁も内側からの破壊には無力だった。
執務室の天井は半分以上が崩落し、灰色の空のもと司令部さえも凍えている。
帝国軍の歩兵が突撃ラッパを吹き鳴らす音が聞こえた。今回は陽動ではない。ついに架けられた橋を渡って、正面から最後の鉄槌がくだされるのだ。
ベルグマンは煤けた軍服を手で払い、壊れた机の抽斗から一本のボトルを取り出した。奇跡的に割れずに残っていた、ラヴィニア産の古いブランデーだ。
彼は二つのグラスにそれを注ぐと副官のシュタインに差し出した。
「どうだ、シュタイン。ラヴィニアの土の味がするだろう」
シュタインは失った利き腕の代わりに包帯だらけの左手でグラスを受け取り、一口含んで苦々しく顔を顰める。
「……土というより、火薬と鉄の味がします、閣下」
「はは、違いない」
ベルグマンは朗らかに笑ってみせると、自身もグラスを呷った。
「クロイツァーの奴め、まさかあの崖に砲を引き上げるとはな。兵站の常識を無視した、我々の息の根を止めることしか考えていない、最短にして最善の一手だ。完敗だよ」
ベルグマンの声には安らぎがあった。知略を尽くし、残酷さに身を任せ、勇気を使い果たした。その上で負けたのだ。むしろ清々しい想いであった。
そしてまだ彼には、己という武器が残されている。
「閣下、地下通路への入り口は確保してあります。将校用の軍服を脱ぎ、平服に着替えれば、閣下お一人なら脱出できる可能性が……」
「シュタイン。私から殿を務める栄誉を奪うつもりか?」
静かに遮られ、シュタインは目を伏せる。水門を開け放った時から、否、この戦争が始まった時から、ベルグマンの頭に「逃げる」などという選択肢は存在しなかった。
ベルグマンは軍刀を腰に佩き、帽子を被り直した。その仕草は舞踏会へ向かう紳士のように優雅だった。
「帝国軍をダンスに誘うには絶好の天気だ」
天井を失くした執務室に、曇天から差し込む冬の日差しが、舞い散る塵を黄金色に照らしていた。
「なあ、シュタインよ。明日は何を食べようか?」
「……実家のパンを。親父の焼くライ麦パンは、馬鹿みたいに硬いですが、噛めば噛むほど味が出るんです」
「そいつは美味そうだ。バターをたっぷり塗って食いたいな」
至近距離で着弾音が響き、外れかかっていた執務室のドアが爆風で吹き飛んだ。
帝国軍の黒い軍服が濁流となって押し寄せてくる。
ベルグマンはシュタインに向かって悪戯っぽい少年のように微笑んだ。
「行こうか。お嬢さん方の到着だ」
***
ヴォルグ要塞陥落から一週間の後、ラヴィニア公国は降伏文書に調印し、長い戦争は冬の内に終結することとなった。
かつての公国の首都にはノイシュタット帝国の旗が掲げられ、占領行政が始まっていた。
旧ラヴィニア公爵邸の一室。現在はノイシュタット軍司令部として使われているその部屋で、クロイツァー元帥は執務机に向かっていた。
山積みの決裁書類の脇に彼が個人的に書き進めていた原稿の束がある。表題は『ラヴィニア戦役回顧録――マルク・ベルグマンの戦略と人物』。
クロイツァーは上機嫌で羽根ペンを走らせる。ベルグマンがいかに優れた指揮官であったか、彼の武勇と知略がいかに帝国を阻んだか、そして彼が最期の瞬間まで貫いた軍人としての高潔さが、克明に、そしてある種の情熱を持って綴られてゆく。
それは己の唯一無二の戦友に捧げる、最大の賛辞だった。
「閣下、失礼いたします」
ノックと共に参謀長が入室してくる。手には占領政策に関する報告書を持っていた。参謀長はクロイツァーの手元にある原稿に目を留め、微かに眉をひそめた。
「まだそれを書かれているのですか」
「ああ。彼の戦術眼は後世に伝えるべきだ。彼のような人物が単なる『頑迷な抵抗者』として歴史に埋もれるのは口惜しいじゃないか」
クロイツァーは手を止めることなく答える。
彼の脳裏には瓦礫の中で発見されたベルグマンの遺体が焼きついていた。無数の銃弾を受けながらもその手は固く軍刀を握り締め、息絶える最後の瞬間まで帝国軍の突撃兵と斬り合っていたのだ。
鋼鉄の数式を打ち破り、クロイツァーと「知恵比べ」に持ち込めた相手は、彼の人生においてベルグマンだけだったのだ。
「お言葉ですが、閣下」
しかし参謀長の声は硬かった。
「自分たちの国を滅ぼし、英雄を殺した敵の将軍が、その英雄を讃える伝記を書く。そんなものを読んでラヴィニアの民が喜ぶと思われますか? 勝者の余裕と見做され、かえって火に油を注ぐことになります」
クロイツァーの手が止まった。インクが滲み、英雄譚に黒い染みを作ってゆく。
「……だが、彼は討ち取るのが惜しいほどの人物だったんだ。彼が評価されない歴史など、間違っている」
クロイツァーは反論した。それは理屈ではなく、同じ地獄を共有した戦友としての感傷だった。
味方であれば間違いなく生涯の友となり、共に酒を酌み交わしただろう。その敬意を表すことを自分に許したいのだ。参謀長は頑なに首を振る。
「閣下。傲慢な顔をして大人しく敗者の憎悪を受け止めてやるのも、勝者の務めです」
理解されようなどとは思わぬことだ、と。
部屋に沈黙が落ちた。時計の振り子の音が穏やかに時を刻んでいる。
クロイツァーは長い間、滲んだインクの染みを見つめていたが、やがて深いため息と共に羽根ペンを置いた。
「お前の言うとおりだな、参謀長」
自分はベルグマンを殺した。その事実は、どんな美辞麗句を並べても覆らない。彼への敬意を公にすることは、彼を殺した自分を正当化する欺瞞なのかもしれない。敬意は、心の中にだけ留めていればいいのだ。
「これは燃やしてくれ」
クロイツァーは書きかけの原稿を参謀長に押しやった。
「よろしいのですか? 何も燃やさずとも、抽斗の中であればご自由になさっても」
「いや。我が国の歴史書には『敵将ベルグマン、頑強に抵抗せしも、我が軍の猛攻により壊滅』とでも記せばいい。勝者が強さを誇ってこそ、敗者への礼儀を尽くせるのだろう」
言い訳のように飾り立てた麗句など、ベルグマンの真実には相応しくない。
「御意に」
参謀長が敬礼し、原稿を持って部屋を辞す。
音もなく扉が閉まると、クロイツァーは椅子に深く身を沈めた。窓の外、未だ真冬の空は分厚い雲に覆われている。あの要塞でベルグマンが最期に見たであろう空と同じ灰色だ。
「さらばだ、友よ。君の名は私の記憶の中だけに刻もう」
クロイツァーは目を閉じて、二度と会えぬ好敵手の面影を思い描く。彼の声さえも知らないけれど、確かな絆がそこにあったのだ。
マルク・ベルグマンの伝記が世に出ることは、永遠になかった。




