終章 沈黙の中の火種
和泉進は、地方の旧校舎を改装した公民館にいた。
天井の高い講義室。
黒板にはチョークの粉がまだ残っている。
古いスピーカーから、ハウリング混じりの音が漏れていた。
だが、子どもたちは静かに座っていた。
講義名は、「語りの時間」。
教科書はない。
扱うのは、“物語ること”そのものだった。
「たとえば、“ありがとう”って言葉を使うとき、
それは何かを“伝える”ために使うこともあれば、
何かを“受け取った”ときの反射のように出ることもある」
和泉の言葉に、小学六年の少女が手を挙げた。
「でも、使わなくてもいいなら、使わなくてもいいよね?」
和泉は少し笑ってから、こう言った。
「そうだね。でも、使わなくてもいいのに、あえて使うときがある。
その“あえて”が、意味の始まりなんだよ」
世間では相変わらず、
“意味を含まない構文処理”が主流だった。
ニュースは無機質な文法構成で構成され、
議会答弁はAIが文脈に“加担しない”中立表現で整えられた。
だが、都市の片隅では、確かに変化が起き始めていた。
——ある学校で、「自分の言葉で語る」作文を課す教師がいた。
——ある地方議員が、AIでは訳せない詩の一節を演説に引用した。
——SNSの一角で、「言葉が通じないけど、でも送るよ」と語りかける投稿が拡散された。
岡本理沙は、静岡の出張帰りに公民館を訪れた。
かつて国会で詩を読み上げ、
制度の中で「語ることの権利」を主張した彼女は、
いまや地方自治体で“非効率な対話支援制度”の実装を進めていた。
彼女は黒板の端に書かれた言葉を見て、目を細めた。
「意味は、言葉より遅れてやってくる。
けれど、確かに“誰かに向けて”やってくる。」
和泉は、授業のあと静かに言った。
「意味は、処理されるものじゃない。
誰かが応答するから、意味になるんです」
岡本はうなずいた。
「語る人がいれば、意味は生まれる。
たとえ、それが“伝わらない”とわかっていても」
その夜、和泉は一人、机に向かってノートを開いた。
RCS装置は封印され、再許可は下りていない。
だが、彼は紙にペンで書き続けていた。
誰が読むかわからない、
誰に届くかわからない、
それでも、語る。
彼は最後にこう記した。
「沈黙とは、語る力が消えたわけではない。
語りたいと願う者の火種が、まだ燃えているだけだ。」
その言葉は誰にも届かないかもしれない。
だが、意味の消えた世界にとって、
それは──
最初の光だった。