第3章 ロゴス・フラットライン
そのデータは、もともと医学的用途に開発された。
「ロゴス・インデックス」。
正式には、「語彙・文脈処理指数」──
脳内の言語領域がどれだけ“意味”として情報を処理しているかを可視化する生体指標である。
読み取りは簡単だ。ヘッドセット型の簡易センサーをつけて、任意の文章を読み上げる。
処理中の脳波反応をもとに、構文処理・語義理解・意図推定の各層をスコア化する。
かつては、失語症や神経疾患の診断に使われていた。
だが今や、このインデックスが社会診断ツールになり始めていた。
その日、和泉進は文部科学省から送られたメールに目を疑った。
「全国統一学力調査(中学2年)における、意味理解課題の正答率が、
過去最低値を記録。特に“行間を読む”問題では、全国平均8.3%」
「行間」とは何か。
それは、言葉の外にある、関係の予測と感情の共有だ。
だが、生徒たちは口をそろえてこう答えた。
「書いてないことは、考えても仕方ない」
一方、ビジネスの世界では別の変化が起きていた。
契約書から「善管注意義務」や「信義誠実」などの曖昧表現が消え、
数値とif-then構造だけの“機械言語契約”が主流となっていた。
しかしその結果──
企業間の調整業務が急増した。
理由は一つ。
「相手が、どう解釈したかがわからない」
会議では、発言の前に「用語定義」を求められる。
議事録では、発言内容よりも「意図の不在」が指摘される。
誰もが「言ったこと」しか信じず、「言いたかったこと」は意味を持たない。
和泉は、独自に追跡していた「ロゴス・インデックス全国平均」の月次グラフを見た。
それは、明らかに“線を割っていた”。
閾値:0.57(意味構造の成立限界)
今月の値:0.48──
それは、言語がまだ機能していても、“意味を構築する力”が社会から消えつつあることを示していた。
岡本理沙は、政府内で秘密裏に開かれていた対策会議の内容を報告してくれた。
「内部では“意味消失はデジタル変革の副産物”という仮説が主流です。
AI最適化による処理スピードの向上が、“意味を持つ余白”を許容しなくなった。
今は、“最速で処理できる情報”しか生き残れないんです」
「“最も伝わる”のではなく、“最も処理される”ものが残る」
和泉は深く息をついた。
「つまり、それは“語る力の死”だ。
語られぬ世界では、人間は社会的存在たりえない。
その時点で、“社会”という言葉も意味を失う」
岡本は静かに、スマート端末に映る一文を読み上げた。
「私たちは、もう“語れない”だけじゃない。
“語りたい”という気持ちも、消えていっているのかもしれない」
その言葉に、和泉は返せなかった。
沈黙は、意味の不在の証明だった。
その夜、和泉は自宅で旧式の万年筆を取り出し、紙に一行だけ書いた。
「意味とは、応答を待つ余白である」
そして自問する。
この言葉に、誰が応答してくれるのか。