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第1章 意味喪失症(Semantic Fade)

 「“ほどほどに”って、どれくらいですか?」


 大学での講義を終えた和泉進が研究室に戻ると、ゼミ生の一人がそんな質問を置いていった。

 咎める気も起きなかった。ただ、言葉を失った。


 彼は言語学者だった。

 正確には、“元”言語学者である。

 今は早期退職制度を利用して、民間の研究委託に籍を置いている。

 肩書きも、響きのいい名前に変わっていた──「言語理解支援アドバイザー」。


 だが、現実にはその職名に“理解”など求める者はいなかった。

 誰もが、意味より“処理”を選んだ。

 意味とは、時間がかかる。手間がかかる。誤解もある。

 それよりは、最初から“わかりやすい言い回し”に統一した方が、効率がいい。


 街はすでに変わり始めていた。

 駅のアナウンスからは、婉曲表現が消えた。


「車内での会話はご遠慮ください」

→ 「話すな」


「ご理解とご協力をお願いします」

→ 「言われたとおりにしろ」


 表現が、ただの命令形に変化している。

 誰もそれをおかしいとは言わない。

 むしろ「わかりやすいから助かる」と答える者が多かった。


 和泉は、自宅に戻るとすぐに記録装置を起動した。

 毎日、身の回りの“意味喪失事例”を集めている。


 今日だけでも以下の記録がある:


病院の問診で、「どんなふうに痛いですか」と尋ねた看護師に、患者が「どんな、ってなに?」と返した。


中学校の授業で「例えて言えば」と話した教師に、生徒が「なんでウソの話をするの」と反論。


SNSでは、「お察しください」という表現が「具体的に書いてないなら価値がない」と批判され炎上。


 和泉は画面を閉じると、書きかけの原稿に目を戻した。

 タイトルは、「ロゴス・ディストロフィー:意味の機能不全と社会の応答不能」。


 数日後、久しぶりに都内の旧友に会った。


 彼女の名は、岡本理沙。内閣府政策調整官。

 かつて、和泉のゼミに在籍していた教え子だ。

 気鋭の官僚だった彼女が、深く目の下にクマを作って現れたのを見て、彼は胸の奥で何かが軋むのを感じた。


 「……会議が、成り立たないんです」

 岡本はため息まじりに言った。


 「議員が“安全保障”と口にすれば、“安全”と“保障”をどう定義しているのかと訊かれる。

 “配慮”という単語を出せば、“配慮とは誰が何に対して?”と詰問される。

 比喩も、曖昧も、暗黙も、すべて“意味不明”として退けられる」


 「“共感”が消えたんだ」

 和泉はつぶやいた。


 「え?」


 「文脈が消え、関係が消えた。

 意味とは、言葉の中にあるんじゃない。

 “誰が、誰に向けて、いつ、どこで”語ったかで初めて成立する。

 その関係の網が断たれたんだ。今は、語彙だけが浮いている」


 岡本は、うなずきながら手元の端末を操作した。

 「実は……こんなものがあるんです」


 そこに表示されたのは、政府内で密かに運用されているというデータベースだった。


 “意味喪失症候群”と疑われる発言ログが、日に6万件を超えている。

 しかもその増加傾向は、もはや感染のような様相を呈していた。


 「進先生、これは……言語の終わりなんでしょうか?」


 岡本が訊いたとき、和泉は少し黙ってから、こう答えた。


 「言葉は、なくならない。

 ただ、“意味”が、そのうち世界から落ちこぼれていくだけだ。

 それは、誰も見えないところで起きてる。

 だからこそ、私たちは記録し続けないといけない。

 誰も気づかないまま、“語りえぬ世界”に入るその瞬間を。」


続く



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