妻子が可愛い夫と夫がよくわからない妻(1)
オネルヴァはすぐに部屋を案内された。
「ここが君の部屋だ。奥の扉は寝室に繋がっている。だが、俺と君は政略的な結婚だし、年も離れている。無理して向こうの部屋に行く必要はない。俺も自分の部屋で寝るから、君を求めるようなことはしない」
求めるようなことはしない――
それは、彼がオネルヴァを拒絶するような言葉だ。チクリと胸に痛みをおぼえたものの、何ごともなかったかのように表情を作る。
「承知しました」
「今日は疲れただろう。他の部屋は明日、案内する。今日は休んでいなさい」
「ありがとうございます」
それでもイグナーツからは、オネルヴァを気遣う様子が見え隠れした。
彼は、静かに部屋を出て行く。
一人残されたオネルヴァは、与えられた部屋をぐるりと見回した。淡黄色の壁紙、白い天井、天蓋付きの寝台にワイン色の長椅子。心が安らぐような部屋である。
この屋敷には魔石を取り入れた道具が多い。部屋の明かりの源も魔石だ。魔石に各人が持つ魔力を注ぎ込むと、魔石が本来の力を発揮する。
例えば、この部屋にある魔石を用いた灯の魔石灯だが、魔石灯に明かりを灯すためにも魔力を注ぎ込む必要があり、こういった生活に必要な道具に魔力を注ぎ込む行為を生活魔法と呼んでいる。
だが、オネルヴァには魔力がない。だから、生活魔法が使えない。この魔石灯は、オネルヴァでは扱えないのだ。イグナーツはオネルヴァが『無力』であることを知っているのだろうか。
扉を叩かれ返事をすれば、ヘニーであった。
「オネルヴァ様。お着替えを」
彼女は疲れているオネルヴァを心配しているのか、控えめにそう口にした。
「あ、はい」
長椅子に座る前でよかった。座ったら立ち上がれなかったかもしれない。思っていたよりも、馬車の長旅で体力を消耗したようだ。
「顔色が優れないようですが。身体を絞めつけないドレスにいたしますね」
これからイグナーツとエルシーとの食事となる。この簡素なドレス姿では、その場に相応しいとはいえない。
ヘニーの手を借りて、オネルヴァは着替えた。
今日も淡い色合いの勿忘草色のドレスである。キシュアス王国にいたときは、色の濃いドレスを着ていたオネルヴァにとっては、真新しい感じがした。
「オネルヴァ様は、優しい顔立ちをされておりますから、このような色合いがお似合いですね」
後ろの鈎を留め終えたヘニーは、ほうれい線に深く皺を刻んで微笑んだ。
「あら。早速お迎えがきたようですね」
そう言った彼女の顔は、より一層綻ぶ。
パタパタと廊下を駆けるような足音と、それを追いかける足音の二つが聞こえてきた。その足音は、オネルヴァの部屋の前で止まったようだ。
コンコンコンコン――。
そのノック音は、少しだけ弱弱しく聞こえる。
「エルシーです。お母さま、お食事のお迎えにきました」
「エルシーお嬢様。リサも困っております。嬉しいのはわかりますが、走らないでください」
リサとは、エルシー付きの侍女である。
「だって。お母さまに早く会いたくて」
ヘニーの後ろから、エルシーがひょこっと顔を出した。
「お母さま、準備は終わりましたか?」
エルシーもオネルヴァと同じような勿忘草色のドレスであった。袖口には、白いレースのフリルがついていて、彼女の可愛らしさと合っている。
「お母さまと同じドレスです」
裾を持ち上げて、エルシーがドレスを見せつけた。その仕草が愛らしく、オネルヴァからも笑みが零れた。
「ねえ、ヘニー。お母さまと一緒に食堂へ行ってもいいでしょう? エルシーがお迎えにきたのだから」
小さな身体で、力強くヘニーを見上げている。
「仕方ありませんね」
ヘニーも腰に両手を当て、呆れたように呟いたが、それは本心ではないのだろう。目尻が優しく下がっていた。
この屋敷の人たちは、みな優しい。
「お母さま、案内いたします」
エルシーが小さな手を出してきた。困惑してヘニーに助けを求めると、手を繋ぐようにと言う。
「ありがとう、ございます」
オネルヴァは彼女の手をきゅっと握りしめた。柔らかくて小さな手は、たちまちオネルヴァの心をぽかぽかと温かくする。
「エルシーは、こうやってお母さまと手をつなぐのが夢でした」
屈託のない笑顔でそう言われてしまうと、オネルヴァは戸惑いすら覚える。
ここにいていいのだろうか。なぜ彼らはこんなにも優しいのだろうか。
「お母さま。どうかしましたか?」
エルシーが下から顔を真剣な眼差しで覗いてくる。
「あっ、いいえ。どうもしません。わたくしが、エルシーのお母様で、よろしいのでしょうか?」
するとエルシーは茶色の目をくりくりっと大きく開いた。
「はい。エルシーはお母さまがよいです。お母さまはお父さまが好きな人、ですよね?」
そう問われると、どうなのだろう。
なにしろ、今日、初めて出会った相手だ。二人きりになったのも、先ほど部屋を案内されたとき。
「そうなると、よいのですが……」
これから生涯を共にするのであれば、嫌われるよりも好かれたほうがいい。
「エルシーはお母さまのことが大好きです」
真っすぐに言葉にされてしまうと、目頭が熱くなる。思わず、その場で立ち止まった。
「お母さま……。なぜ、泣いているのですか? エルシー、悪い子ですか?」
そう指摘され、オネルヴァは自分が涙を流していることに気がついた。
慌てて、頬を濡らす涙を拭う。側にいるヘニーとリサも慌てる。
「何事だ」
カツカツと響く足音を立ててやってきたのは、イグナーツである。
ヘニーとリサは、さっと身を引いた。
「お父さま」
「何があった?」
エルシーはオネルヴァの手を離し、イグナーツの足にひしっとしがみつく。
彼は娘の肩に優しく手を回しながらも、オネルヴァの顔を覗き込んできた。
「いえ……。なんでもありません」
「なんでもなくても、君は泣くのか? エルシーが、何かしたのか?」
「申し訳、ありません。エルシーは悪くありません。すべては、わたくしが悪いのです」
イグナーツは困って娘を見下ろす。エルシーも父親を見上げるが、首を横に振る。
「あなたもここに来たばかりで疲れているだろう。食事も部屋に運ばせるから、部屋に戻りなさい」
「いえ。大丈夫です」
「大丈夫という顔をしていないから、そう言っている。大丈夫だと言うのであれば、泣いた理由を話しなさい。そうでなければ、ここにいる皆が納得しない」
オネルヴァは涙が止まるように、唇を引き締めた。不覚にも泣いてしまったことで、この場にいるたくさんの人に迷惑をかけている。
「……嬉しかったのです」
その言葉に、イグナーツは眉をひそめた。
「エルシーに好きだと言われて、嬉しかったのです」
だから自然と涙が零れた。誰かに好きだと言われたことなど、記憶のある限り今まで一度もない。
「初めてでしたので……」
「そうか」
呆れてしまっただろうか。
オネルヴァは恐る恐る顔をあげた。彼は困ったように目尻を下げている。
ずきっと胸の奥が痛んだ。なぜ、胸が痛むのかもわからない。
「エルシーを受け入れてくれてありがとう。俺にとってもかけがえのない存在だ」
「わたくしのほうこそ、エルシーと出会える機会を作っていただき、ありがとうございます」
右手にあたたかくて柔らかいものが触れる。
「お母さま?」
エルシーが満面の笑みを浮かべている。
「ありがとう、エルシー」
エルシーはもう片方の手でイグナーツの手を握りしめた。
「エルシーは、こうやってお父さまとお母さまと手をつなぎたかったんです」
うふふと声をあげている。
イグナーツは呆れたように鼻で笑った。
「では、このまま食堂に向かおうか」
エルシーを真ん中にして、その両端にはイグナーツとオネルヴァ。端から見たら仲のよい親子に見えるだろう。むしろオネルヴァは、そう見えることを願っている。そして、そう思っている自身に、戸惑いを覚えた。