夫41歳、妻22歳、娘6歳(3)
「まあ。正式には後日、陛下を通して連絡があるが……。そういうつもりでいてほしい」
「承知しました。では、旦那様が不在の間に届いていた釣書は、不要になったということでよろしいですね?」
「そうだ」
人が不在の間に何をやっているのかと怒鳴りたいところであったが、ぐっと耐えた。
「それから。エルシーには俺から話す」
「そうですね。エルシーお嬢様の母親となるべき方ですからね。ところで、幻の王女様は、おいくつくらいの方なのでしょう? 私の記憶するところでは、二十歳前後であると思っているのですが」
幻の王女とは、パトリックも上手いことを言う。第二王女として生を受けたが、その存在を長年隠されてきた王女。となれば、幻と表現されてもおかしくはない。
「二十二歳だそうだ」
「ふむ。旦那様が四十一歳。王女様が二十二歳。まるで、親子ですね。そこにエルシーお嬢様が入れば、母娘とじじい……」
痛いところを突かれた。
イグナーツは、彼女との年齢差も気になっていた。
そもそも結婚しないと思っていたイグナーツは、結婚せずにこの年までやってきていた。そしてこれからも結婚する気はなかった。
それでも周囲は、イグナーツに結婚をさせたがる。
パトリックが口にした釣書も、二十代の女性がいたとしてもわけありの女性で、ほかは年齢が釣り合うような女性であっても、やはりわけありの女性だった。
そういった意味ではキシュアス王国の元第二王女もわけありだろう。
「俺のことはどうでもいい。むしろ、エルシーが心配だ。話をして、彼女が望んでいなければ、やはりこの結婚は断ろうと思う」
断ることはできないと何度も言われたが、エルシーを盾に使えばそれが覆るような気がしていた。
「エルシーお嬢様は、こちらが心配するくらい物分かりのよい子です。ですから、旦那様が誠意をもってお話されれば、納得してくださるかと」
「納得するしないの話ではない。エルシーの気持ちを確認したいんだ。彼女が母親を望むか望まないか。それだけだ」
パトリックは目を糸のように細くして、ほほっと微笑んでいた。イグナーツはそれをじろりと睨みつける。
「では、私は食事の準備を言いつけてまいります。お時間になりましたら、お呼びいたしますので」
「ああ、頼む」
立ち上がり、腰を折って部屋を出ていくパトリックを見送った後、イグナーツは限界までソファに寄り掛かった。
天を仰ぐ。
キシュアス王国の前王は、国家資金を私利私欲のために使い込んでおり、国内は酷い有様だった。地方では税率をあげられ、作った農作物の粗方を税という名目で奪われてしまう。王都テシェバに住む者たちですら、物価が値上がり、今日のパンを焼く小麦すら買えない状況で、生命維持すら危ぶまれていた。
その状況を打開しようとしたのが、王の弟であるラーデマケラス公爵である。
彼は私兵団を使い、実兄を王の座から引きずり降ろそうとした。
その協力依頼がきたときには驚いたと、ゼセール王も口にしていた。
血の繋がった兄弟による争い。
弟であるラーデマケラス公爵が、どのような気持ちで兵を挙げたのか、イグナーツは知らない。
イグナーツにも年の離れた弟がいたが、五年前の内戦で命を失っている。もちろん、そのときにも軍を率いていたのはイグナーツだ。あの内戦では、幾人もの尊い命が奪われた。
胸の奥が痛む。
勢いよく起き上がったイグナーツは、部屋を出て執務室へと向かい、さらにその隣の部屋へと移動する。ここはイグナーツの癒しの空間。あのエルシーであっても、絶対に立ち入らせない秘密の部屋なのだ。
イグナーツは目当てのものを見つけると、それを静かに手にとった。
カチャカチャとカトラリーの静かな音が響く。必死でナイフを動かしているエルシーの姿は、見ていて飽きない。
広い食堂の翡翠色のテーブルクロスの映えるテーブルに、イグナーツはエルシーと向かい合って座り、食事をとっていた。
「旦那様、こちらは苦手なものでしたか?」
パトリックがそう声をかけてきたのも、イグナーツのフォークがなかなか動かないからだろう。
「お父さま、好ききらいをしてはいけません」
いきなりエルシーからそのように言葉をかけられて、思わずイグナーツは目を細めた。彼女の口元には、ソースがついている。
「ああ。そうだな。久しぶりにエルシーと食事をして、嬉しすぎて喉が通らないんだ。食事はどれも美味しいよ」
慌ててイグナーツはフォークを口元にまで運んだ。
あの件をどうやってエルシーに伝えるか、悩んでいたせいもある。
エルシーは、しばらく会わない間にずいぶんと成長したようだ。食事も一人で食べるし、カトラリーの使い方もよく学んでいる。
だが、好き嫌いをしてはいけないと言った彼女自身が、苦手な野菜を皿の隅に避けていた。それには微笑みすら零れる。
食事が終わり、お茶が運ばれてきた。エルシーの前には、彼女の好きなチョコレートのババロアが置かれる。
「エルシー」
名を呼ぶと、ババロアをすくっていた彼女が顔をあげた。
「新しいお母さまがきてもいいか?」
ポロリと彼女のスプーンの上からババロアが落ちた。慌ててエルシーはすくい直すと、パクリと口に入れる。
そんな彼女の様子をイグナーツは黙って見ていた。彼女が嫌がる素振りを見せるなら、結婚を断る絶好の機会である。
ババロアを噛みしめたエルシーは、にかっと顔を輝かせた。
「はい。うれしいです」
彼女が嫌がるだろうと思っていたイグナーツは面食らった。笑顔のエルシーに対して、イグナーツの顔はひくひくと引き攣り始めている。
「エルシーは、新しいお母さまが嫌ではない?」
「はい!」
元気よく返事されてしまうと、今までイグナーツだけでは不満だったのかと思ってしまうくらいだ。
寂しい思いをさせてしまったのか。
やはり父親だけでは満たされなかったのか。
瞬間的に、さまざまな思いがイグナーツの頭を支配し始めた。
「エルシーもお母さまと仲良くなれますか?」
まだ居ぬ母親に、彼女は想像を広げている。
――失敗した。
完全に裏目に出た。イグナーツは、エルシーが新しい母親を拒むと考えていた。
二人の家族に割り込む他人。それを嫌がるだろうと勝手に思っていた。
「そうだな。お母さまはエルシーと仲良くしたいと、そう思っているよ」
イグナーツですら目にしたことのない彼女を、勝手に美化して口にした。
エルシーの期待を裏切りたくない。となれば、彼女の「新しいお母さま」をこの屋敷に連れてこなければならないだろう。
「お父さまは、新しいお母さまと結婚式をするのですか?」
エルシーに聞かれ、はっとする。
エルシーが幻の王女を母親として望むのであれば、この屋敷に受け入れようと思っていたが、結婚式をどうするかまでは考えていなかった。その辺はあの王と相談しなければならない。むしろ、彼のことだから勝手に決めている可能性もある。
エルシーの瞳は期待に満ちて、きらきらと輝いていた。結婚式に憧れる年頃なのだろう。
「それは……。俺も若くないからなぁ。まずは一緒に住んでから、お母さまの意見を聞いてから考えるというのはどうだろう?」
「わかりました。でも、お母さまも結婚式をしたいと思います。エルシーも結婚式をしたいです」
後方から熱い視線を感じた。チラリとそこに目を向けると、パトリックが真面目な顔をして立っているが、口元だけは少しだけゆるんでいた。
*~*~花の月五日~*~*
『きょうは おとうさまがかえってきました
あたらしいおかあさまがほしいか きかれました
それは おとうさまにすきなひとができたあいずです
エルシーは おとうさまがすきなひとと しあわせになってもらいたいです
エルシーは おとうさまのこどもになれて しあわせです
あたらしいおかあさまは エルシーのことを すきになってくれるかな』