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夫42歳、妻23歳、娘7歳(6)

 見張りをしていた者に目配せをしたイグナーツは、オネルヴァを抱きかかえたまましっかりとした足取りで奥の部屋を目指す。オネルヴァとエルシーが使っている部屋とは違う部屋。

「あの、ここは……」

「俺たちの部屋だ」

 彼が指を鳴らして魔石灯をつける。ぼんやりと橙色に照らされる室内。天蓋つきの落ち着いた(こき)色の大きな寝台が目に入る。

 室内の真ん中にある鈍色の長椅子におろされた。

「こんな時間だが……お茶でも飲むか?」

 こんな時間であっても、部屋の隅にワゴンが置いてあり水差しと湯沸かし、カップや茶葉が綺麗に並べて置いてある。

「先に、風呂の準備をしてこよう。冷えただろう?」

 これから冬が訪れようとしている季節だ。夜は冷える。

「わたくしよりも、旦那様のほうが」

 オネルヴァはおもわず彼の手を掴んでいた。驚いたようにイグナーツは振り返る。

「ご、ごめんなさい……」

 オネルヴァ自身、なぜ彼を引き止めたのかがわからなかった。だが、彼を掴んだ手は微かに震えていた。なぜ震えているのかもわからない。

 彼は黙ってオネルヴァの隣に座る。

「そのような格好のままでは風邪をひくだろう? 遅くなってすまなかった……。怖い思いをさせたな」

 イグナーツの両手が背に回り、彼女を抱き寄せる。

 そのぬくもりに触れると、目頭が熱くなる。彼の手が優しく背をなでた。

「……はい。怖かったのです。それでも旦那様が、わたくしの力について教えてくださったから。魔力が無効化されるのであれば、きっとそれが効かないのだろうと。それに、絶対に旦那様が来てくださると、わかっておりましたから」

 だから魔法をかけられた振りをして、逃げ出す機会を見計らっていた。あの男の目的はオネルヴァを穢すことだとわかっていたから、あとは無防備になったところを狙えばいい。

 とにかくイグナーツが来るまでの時間稼ぎができればよかったのだ。

「それで……あそこを蹴ったのか……」

 くくっとイグナーツが笑っている。

「だ、旦那様?」

「いや。よほど痛かったのだろうな、と。君の行動力には驚いたよ」

「ミラーンさんのことがよくわからなくなってしまって。とにかく、旦那様たちがやって来るまで自分でなんとかしなければと。あんなに、必死になったのは初めてです」

 今までのオネルヴァであれば、間違いなくその場に流されていた。ミラーンに裏切られたと思い、生きていても仕方ないと悲観し、最悪の生末に身を投じただろう。

 万が一、イグナーツたちが間に合わなかった場合、どうせ死ぬなら産みの母親も道連れにしてやろうとまで考えた。流され続けたオネルヴァにとっては、決死の覚悟であったのだ。

 今までのたまりにたまった気持ちが、一気に爆発した。

 それでもやはりイグナーツを信じていた。だから、あの男の股間を蹴り上げた。

「落ち着いたようだな。風呂の準備をしてこよう。やはり、身体が冷えている」

 イグナーツが笑ってくれたおかげで、揺らいでいた気持ちが凪いだ。それに彼の熱であたためてもらったから、離れると急に心細くなる。

「すぐに戻ってくる。俺はどこにも行かない」

 まるで心の中を見透かされたような言葉に、オネルヴァは上着を手繰り寄せた。微かに残る甘い香りが、心の隙間を埋めてくれる。これは彼のにおい。包まれると、なぜか安心できる。

「待たせたな」

「……あっ」

 イグナーツが穏やかな笑みを浮かべて立っていて、シャツの袖はまくりあげられている。彼自ら、風呂の用意をしてくれたのだ。

 オネルヴァは彼の顔をまともに見ることができなかった。

 上着のにおいをかいでいたところを見られてしまっただろうかと、急に頬が火照り出す。そのまま上着の中に顔を隠す。

 だが、イグナーツはそれごとひょいと身体を抱き上げてきた。

「では、身体をあたためよう」

「えっ……あっ」

 そのまま浴室へと連れていかれる。

 イグナーツは躊躇いもなく、シャツを脱ぎ下着にも手をかけている。目の前に彼の裸体が晒され、オネルヴァはぼんやりとそれを眺めていた。

「なんだ? 一人では脱げないのか?」

「あ、えと……一緒に?」

 まさか一緒に風呂に入るとでも言うのだろうか。

「こんな時間だ。ヘニーを起こすのも悪いだろう?」

「で、ですが……」

「今の君を一人にするのは、心配なんだ。何もやましい気持ちがあるわけではない」

 オネルヴァは目の前のイグナーツの全身に視線を這わせる。

 厚い胸板に鍛えられた筋肉、そして細かい傷跡がところどころにある。こんな明るい場所で彼の肌を見るのも初めてだ。

 彼女の視線は、ある一点で止まった。

「なんだ。気になるのか?」

 その視線の先に気づいたイグナーツは、恥じる様子もなく堂々としていた。

 オネルヴァはくるりと背を向ける。

「い、いえ」

「先に入っている」

「は、はい……」

 背中越しに返事をすると、彼がチャポンと湯に入る音が聞こえる。

 オネルヴァは背を丸めて、着ている服を脱ぐ。だが、困った。先に入られてしまったら、どうやってそこまで行けばいいのか。

 すべてをさらけだしたものの、振り返ることができない。顔だけ振り向くと、ゆったりと湯に入っているイグナーツと目が合う。

「早くきなさい。寒いだろう」

 恥ずかしい部分を手で覆うようにしながら、浴槽へと近づく。真っ白い浴槽はとても広くて、二人で入っても問題はないのだが。

「今さら恥ずかしがる必要もないだろう」

 こういった余裕のある様子が悔しい。

 イグナーツの手が伸びてきて、オネルヴァの身体を支える。その手に誘われるがまま身体を預けたら、彼に胸に背中を向けるような形で座らされた。これではまるで、イグナーツが椅子のようである。

「ミラーンさんは諜報員なのですか?」

 今回、カトリオーナたちが修道院から逃げたこと、それに手を貸したのがシステラ族であること、その情報を仕入れてきたのはミラーンである。

 システラ族の中には争いを望まない者もいて、そういった者とミラーンが手を結び、互いに情報のやりとりをしていたのだ。

「俺の信頼できる部下だからな。なんでもできるんだ」

 そう言った彼の声は、どこか誇らしげに聞こえた。

 二人で風呂に入ったが、イグナーツは最初の言葉通り、それ以上のことは何もしてこなかった。ただ、オネルヴァの身体と心をあたためただけ。

 ほくほくと湯気が漂うような身体のまま、二人で寝台にもぐりこんだ。

 こうやって抱き合って眠るだけなのに、身体も心も満たされた気分になるのが不思議だった。

 ――産まれてきてくれて、ありがとう。

 眠りへと誘われていくなか、彼のその言葉が忘れられない。


 目が覚めると、日はずいぶんと高くまで昇っていた。隣で寝ていたはずのイグナーツの姿はない。慌ててヘニーを呼ぶ。

「ごめんなさい。寝過ごしたようで」

 身支度を整えながら謝罪の言葉を口にするが、ヘニーはすべてをお見通しであるかのように微笑んだ。

 イグナーツは北の関所に向かったと言う。それから、アルヴィドがここを訪問する件もなくなってしまったとのこと。昨夜のことを考えれば、仕方のないことかもしれない。

「お母さま、おはようございます」

 オネルヴァが食堂に入ると、先に食事を終えたエルシーがぱっと顔を輝かせた。彼女の前のテーブルには何もないことから、食事を終えてもここでずっと待っていたのだろう。隣の椅子にはうさぎのぬいぐるみが行儀よく座っている。

「おはよう、エルシー。遅くなってごめんなさい。エルシーは朝食を終えたのかしら?」

「はい。たくさん食べました」

「まぁ。それはよかったですね」

 オネルヴァは、エルシーの隣に座った。もちろん、うさぎのぬいぐるみが座っていないほうの隣だ。

 オネルヴァの分の朝食が並べられる。

 そこに、昨日立ち寄ったジナース酒蔵の葡萄水が並べられたのは、誰の気遣いなのだろう。


*~*~刈りの月五日~*~*


『きょうは アルおにいさまが あそびにきてくれるひでした

 だけど おしごとがいそがしくて これなくなりました


 アルおにいさまは キシュアスというくににいます

 おかあさまも キシュアスというくにからきました


 エルシーもキシュアスというくににいってみたいです』

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