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夫42歳、妻23歳、娘7歳(5)

「それは困るな」

 男性の低い声が響いた。

 声は、この牢の入り口に繋がる階段の上から聞こえてきた。顔をあげると、入口の扉は開いていて、幾人かの人影が見える。だが、逆光になっているためその姿は影となり、誰であるかをはっきりと目にすることはできない。

 それでも、この声はよく知っている。

「お前たち。あいつらを捕らえろ」

 複数の足音が、中へと入ってくる。だが、オネルヴァはその手を緩めない。

 先ほどから悶え続けている男は、軍服姿の男たちに身体を拘束される。その周囲にいた取り巻きたちの男も同様に。

「オネルヴァ。離れなさい」

 カツンカツンとブーツ音を響かせながら、ゆっくりと近づいてくる男はイグナーツだ。見間違えるはずもない。

「あとは俺たちにまかせなさい」

 その声に、オネルヴァは首を横に振る。

「この人を生かしておけば、また同じようなことを繰り返します。わたくしも、この女も、生きていてはならないのです」

 もう母親とは呼ばない。この人を生かしておけば、誰かに寄生して、こうやってオネルヴァを狙ってくる。そのたびに、周囲の者を巻き込むのであれば――。

「オネルヴァ……。それでも俺は、君に生きてほしい」

 イグナーツがゆっくりと近づいてくる。一歩、また一歩。

 オネルヴァは、ナイフを握りしめている右手にきゅっと力を込めた。刃先が皮膚に食い込む。

 彼はすべてを許すかのようなあたたかな眼差しで近づいてくる。そんな彼から目が離せない。

 だから気がついた。イグナーツたちの拘束から逃れたシステラ族が一人、物影に隠れていたのだ。

 両手で剣を握り、イグナーツめがけて走ってくる。

「閣下」

 イグナーツが剣を抜くより先に動いたのはミラーンである。

「イグナーツ殿」

 タタッと勢いよく階段を駆け下りてくる男もいる。

「アルヴィド、兄さま……?」

 イグナーツに剣を向けている男は、まずミラーンによって足をかけられ倒れそうになった。すかさずアルヴィドが手刀で男と剣を引き離す。

 そんなやり取りをぽかんと見つめていたオネルヴァの目の前には、いつの間にかイグナーツが立っていて、オネルヴァの手首を優しく捕らえた。

「君に、このようなものは似合わない」

 その隙を見てカトリオーナは身をかがめ、オネルヴァの腕の中から逃げ出す。だが、逃げ出した途端、その場から動けないようだ。

「悪いが、あなたを拘束させてもらった」

 イグナーツが魔法によって拘束したのだ。だが、拘束魔法はその魔法を使っている者が側にいなければ、持続しない。となれば、最終的には拘束具で拘束する必要がある。

 カトリオーナに拘束具をつけたのはアルヴィドであった。

「情をかけて修道院へと送りましたが、あなたにはいらぬものでしたね」

「オネルヴァ……。何もかも、あんたのせいよ……」

 カトリオーナの眼は血走っており、きつくオネルヴァを睨みつけてくる。

「なぜ『無力』が蔑みの対象となっているかわかる? 国を傾けるからよ。『無力』がいると国が亡びるの。だから、あなたの父親も兄もみんな死んでしまったでしょう? あなたのせいよ」

 石造りの牢内に、女の金切り声が響いた。

「違うな」

 オネルヴァの腕を掴んでいるイグナーツが、静かに言い放つ。

「キシュアスの前王が討たれたのは、オネルヴァが『無力』だからではない。民のことを顧みず、己の欲にまみれたのが原因だ」

「違う。この子のせいよ。この子が『無力』だから。この子のせいで、あの人は……。私は……。お前なんて、産まれてこなければよかったのに!」

 オネルヴァだってわかっていた。そうでなければ、二十年以上もあんな場所に閉じ込められていない。生きているのに、いないような存在とされていたのだ。

 だが、これでわかった。『無力』であるのが罪な理由。それは国を亡ぼす。だからオネルヴァの父であった前王は討たれた。

 目の前の女は、そう思っているのだ。

「イグナーツ殿。これはこちらの責任だから、俺たちが連れていく。イグナーツ殿はオネルヴァを頼む」

「ああ。後は任せた」

「閣下。北軍の指揮は私が執りますので、奥様をお願いします」

 ミラーンはぴしっと頭を下げてから、階段を駆け上がっていく。

 薄暗い牢内に、オネルヴァはイグナーツと共に取り残された。

 イグナーツは上着を脱ぐと、オネルヴァの肩にそっとかける。

 あの男に引き裂かれた萌黄色のワンピースは、みすぼらしいことになっているし、下着すら見えていた。

 急に恥ずかしくなり、かけてもらった上着をきつく握りしめる。そこから伝わる彼のぬくもりに、少しだけ心が凪いだ。

「オネルヴァ、すまない。君を巻き込んでしまった……」

 カトリオーナに打たれて頬をイグナーツが優しくなであげると、すっと痛みが引いていく。

「いえ……囮になることを選んだのはわたくしです」

 イグナーツは、システラ族がいつかは襲ってくるだろうことを予想していた。

 数日前に、カトリオーナたちが修道院を脱走したと、そういった情報が入ってきており、それに手を貸したのがシステラ族では、と疑っていたのだ。この件に関しては、王都にいる間、イグナーツとアルヴィド、そしてゼセール王の間でずいぶんと話し合われたようだ。

 アルヴィドの領地視察の件も、イグナーツとオネルヴァが離れれば、カトリオーナがオネルヴァを狙うだろうと考えたからである。

 そのような危険な案にイグナーツは反対した。だけど、それにのったのはオネルヴァ本人だった。ゼセール王から呼び出され、王自らオネルヴァに打診した。

 オネルヴァは、今の「幸せ」を壊したくないがために、囮になることを受け入れた。

「そういえば、ミラーンさんは……」

 オネルヴァは囮になると言ったが、まさかミラーンがオネルヴァを捕まえるとは思ってもいなかった。当初の予定では、ミラーンはエルシーを守る役であったはず。

「ミラーンには敵に寝返った振りをしてもらった。ミラーンの母親はシステラ族だからな。自分が適任だと、ミラーンが自らそう口にした。本当は、事前に君に伝えるべきだったかもしれないが……」

 そこでイグナーツは、言いにくそうに口をつぐむ。彼も、こういった事案にオネルヴァを巻き込んでしまったことで、心を痛めている。

「君がミラーンに甘えてしまうと、作戦が失敗することも考えられた。君が囮になると言ってくれた以上、絶対に失敗させるわけにはいかなかった」

「そうだったのですね……」

 一瞬、ミラーンが本当にイグナーツを裏切ってしまったのかと疑ってしまった。それだけ彼の言動が、本気に見えた。言い方をかえれば、迫真の演技だったのだろう。

「オネルヴァ……。今、これだけは君に伝えたい」

「なんでしょう?」

「産まれてきてくれて、ありがとう……。俺と出会ってくれて、ありがとう」

 我慢していた涙が、一気に溢れた。


 オネルヴァが閉じ込められていたのは、システラ族が数年前まで住んでいた屋敷であった。イグナーツの治めている領地からは、馬車で一時間ほど離れたところの朽ちた街にあった屋敷。その地下の牢である。

「もうここには誰も住んでいないが、内戦の前にはシステラ族が住んでいた。ミラーンはここの出身だ」

 システラ族は、ゼセール王国にきてからいくつかに分断した。そのうちの一つがここに拠点を張ったのだ。

「あの内戦によって、生活を奪われたのはシステラ族も同じだ。特に、ここに住んでいた者たちは力のない者が多く、争いを望んでいなかった。だから、俺たちが保護した。ミラーンの母親も、今は別の場所に住んでいる」

 ヘニーも言っていた。生き残ったシステラ族は細々と生きていると。

「先ほどのシステラ族は……」

「あれは俺たちの失態といってもいいだろう。処刑し損ねた奴らだ。もしくは、誰かが意図的に彼らを逃がしたか……。それは、これから明らかになるだろうな」

 イグナーツに抱かれながら外に出ると、空には星が瞬いていた。この空はあのときに見た空とよく似ている。

「アルヴィドお兄様がわたくしを離宮から連れ出してくださったときも、このように星がたくさん見えました」

「そうか……」

 オネルヴァはイグナーツに身体を預けた。

「さて、屋敷に戻るとしよう。移動は馬なんだ」

 イグナーツは軽やかに馬にまたがると、オネルヴァの身体を引き上げた。オネルヴァは彼の身体にすっぽりと覆われる。

「危ないから、しっかりと捕まっていなさい」

 何に捕まっていいかわからないオネルヴァは、イグナーツの腕をきつく握りしめた。

 馬車で一時間であれば、早馬ではもっと早く着く。暗闇の中、頬を冷たい風が吹きつける。それでも、目の前にぽつぽつと明かりが見えるようになると、他の人がいる安堵感に包まれる。

 本邸に着いたのは、日も替わろうとしている時間帯であった。

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