夫42歳、妻23歳、娘7歳(3)
目が覚めてカーテンの隙間から外をのぞくと、いつもと違った景色が見えた。
窓の向こう側に広がるのは茜色の屋根。小高い場所にあるこの本邸は街を上から見下ろすように建っているため、この部屋からは家屋が見える。同じ色合いのものが規則的でありながらも、ところどころ乱雑に並んでいる様子が、この街並みの面白さでもある。ときおり、大きさの違う建物が点在していて、あれはなんだろうと思っていた。
背中から布が擦れ合う音が聞こえた。
「お母さま?」
どうやらエルシーが目覚めたらしい。
「おはようございます、エルシー。よく眠れましたか?」
「はい」
「では、ヘニーを呼びましょうね」
ベルを鳴らすと、すぐにヘニーが侍女を連れてやって来た。
ヘニーがカーテンを開けると、まばゆい光が差し込んでくる。昨日とかわって今日は天気がよさそうだ。
着替えを終え、食事をすませる。
オネルヴァは、ヘニーと共にアルヴィドを受け入れる準備を始める。
といっても、ここに足を運ぶのはアルヴィドとその護衛だけであるため、決めることは数多くない。食事をどうするか、どう過ごしてもらうか。それが主な内容であった。
メニューの予定を教えてもらい、食料庫の在庫を確認する。滞在してもらう部屋にも足を運び、内装などにもあれこれと指示を出す。イグナーツもアルヴィドと共にこちらに来るだろうから、基本的な内容はイグナーツに任せればいい。
だが、ここに滞在している間、アルヴィドに不満があってはならないようにしたい。それは、イグナーツのためにも。そして、この国のためにも。
そうやってあれこれと確認して、相談して、計画を立てているだけで一日が終わってしまった。
アルヴィドがやってくるのは、明後日と聞いている。ここで数日滞在した後、そのまま北の関所へと向かい、キシュアス王国へと戻るとのこと。
「お母さま。お仕事、終わりましたか?」
サロンでお茶を飲んでいると、うさぎのぬいぐるみを抱きしめたエルシーが遠慮がちに声をかけてきた。
窓から差し込む陽光は、長い影を作っている。
「ええ、今日のお仕事は終わりました。エルシーも一緒にお菓子を食べますか?」
「はい」
オネルヴァがにっこりと微笑めば、エルシーも同じように満面の笑みを浮かべる。そして、隣にちょこんと座った。
「明後日には、アル兄さまもこちらにいらっしゃいますからね」
「お客様がおうちにくるのは、初めてです」
ヘニーはエルシーのために、ホットミルクを準備してくれた。
「そうなのですね?」
イグナーツの立場を考えれば、不思議でもないのかもしれない。軍の仕事で屋敷を空けることも多く、オネルヴァが嫁ぐまでは独り身だった。
「奥様、お嬢様。明日の午後であれば、街を見学するためのお時間が取れますよ」
そう口にしながら、ヘニーはエルシーの前にケーキを並べた。ケーキの小皿を手にしたエルシーは、ヘニーの言葉の意味を確認するかのように首を傾げる。
オネルヴァは微笑んでエルシーに言葉をかける。
「旦那様がよく街に足を運ばれるとお聞きして、わたくしも行ってみたいと思ったのです」
「エルシーもいきたいです」
元気に声をあげたエルシーの口の端には、ケーキのクリームがついていた。オネルヴァはそれを拭った指を、ぺろっと舐める。
「あら、エルシーの食べているケーキは美味しいですね」
「奥様もお食べになりますか?」
「いえ。わたくしはこちらのお菓子で充分です。これ以上食べてしまうと、せっかくのお夕食が食べられなくなってしまいますから」
ヘニーはオネルヴァの答えなどわかっていたはずだ。だから、あえて彼女にはケーキを出さなかった。少しずつ食べる量も増えてきているオネルヴァだが、それでも他の者と比べると食は細い。
「今日のお夕飯は、エルシーお嬢様の大好きな人参のスープですよ?」
ヘニーの言葉にエルシーは顔を歪ませた。
オネルヴァは朝から客人を迎え入れる準備で忙しなく動いていた。それでも、昼過ぎから街へ足を運べるという高揚感が疲れをどこかに置き去ってきたようだ。
「では、私が案内させていただきますね」
いつもの軍服とは異なる平服姿のミラーンは、どこか新鮮である。
オネルヴァも簡素な萌黄色のワンピースに着替えているし、エルシーもお揃いのワンピースである。
「あ、でも。閣下には内緒にしてください。私が、奥様とお嬢様を街へ連れて行ったと知ったら……叱られる気がします」
「まぁ。でしたら、わたくしから旦那様に叱らないように言いますから。こちらの我儘でミラーンさんにご迷惑をおかけするのは心苦しいです」
「エルシーもお父さまにミラーンさんを怒らないように言います。だから、街に連れて行ってください」
「奥様とお嬢様にそう言ってもらえると嬉しいですね。ですが、違う意味で叱られそうだ……」
ミラーンの言葉にオネルヴァとエルシーは首をひねる。
「では、行きましょう。私が奥様たちの前を歩きますので、二人はついてきてください」
「後ろには私がおりますので」
もちろん、ヘニーも同行する。いつでも彼女の足取りはしっかりとしている。
オネルヴァはエルシーの手をしっかりと握りしめた。
「楽しみですね」
オネルヴァが微笑むと「楽しみです」と満面の笑みが返ってきた。
屋敷から続く広い道を、四人を乗せた馬車がゆっくりと進む。この道は緩やかな下り坂になっており、街へと続く。そのまま街の中心部を抜けて、北の関所へと続く道でもある。
街の入口へと着くと、そこで馬車を降りた。
今日はイグナーツの妻として街を見るのではなく、その身分を隠しての見学である。それは、イグナーツ自身がここにいないのが理由らしい。
馬車から降りた途端、エルシーの口はぽかんと開いた。こういったところは素直である。
「何か見たいものとか、食べたいものとかありますか?」
「ごめんなさい。すべてが初めてで、何をどうしたらいいかがわからないのです」
馬車から降りた先の道は真っすぐに伸びており、その両脇に茜色の屋根が並ぶ。
「似たような建物が多いのですが、お店は外にああいった看板が出ています。まあ、この道沿いに並んでいるのはほとんどが店ですね。馬車も通れるような道幅ですし。裏の路地に入ると民家が多くなります。こういった街並みはどこも似たようなものだと思いますよ。まずは、この道沿いをゆっくりと歩いてみましょうか。疲れたらどこかのお店で休憩する。そんな感じでいいですかね」
そんな感じもどんな感じもオネルヴァには分からないため、ミラーンの提案にのる。
昼を少し過ぎた時間帯であるため、街のメイン通りは買い物をする者で溢れていた。
「あ、ミラーンさん。お部屋から見えた大きな建物が気になっていたのですが。レンガのような外壁の建物です」
その言葉だけでミラーンはどこかがわかったようだ。ポンと左の手のひらを右手で作ったこぶしで叩く。
「あれは、酒蔵ですね。果実酒を作っているところです。果実水も作っていますが。行ってみますか? レストランも兼ねているので、試飲もできますよ。夜は酒場になります」
「領地の東側では葡萄園がありまして、そちらの葡萄を使って葡萄酒も作っているのです」
ヘニーが言葉を補った。
そう話を聞くと、行ってみたいと思えてくるから不思議なものである。エルシーにも尋ねると、彼女も行きたいと言う。
「じゃ、決まりですね。行きましょう」
当てもなく街をぶらぶらとするのも楽しそうであるが、目的があると別の楽しみもある。
ミラーンに案内されて、酒蔵へと足を向ける。
「ここが、ジナース酒蔵です。ただ、酒蔵というよりはレストラン、酒場といったほうがここの人には馴染はありますね」
扉を開けるとカランコロンとベルが鳴る。
甘い香りが店内から漂ってきた。その濃厚な香りに自然と顔がほころぶ。
「いらっしゃいませ」
白いエプロン姿の店員が、にこやかな笑顔と共に迎える。
ミラーンが店員とやりとりをしている様子を黙って見つめてから、視線だけで店内を確認する。彼が言っていた通り、店内の奥には食事のできるスペースがある。
「見学、できるようですよ」
係の者に案内され、醸造所へと足を向ける。
葡萄の甘酸っぱい豊かな香りが、よりいっそう強くなった。
今まで味わったことのない刺激に、オネルヴァもエルシーも気持ちを躍らせる。
葡萄酒が入っている大きな樽は見上げるほどであるし、葡萄酒が瓶へと次々に注がれる様子も目が離せない。
エルシーは何度もタタッと駆け出しては、ガラス窓の向こうの世界をじっと見つめている。
「いやぁ、ここまで喜んでいただけるとは、嬉しいですね。少し、レストランのほうで休みましょう」
ミラーンの言葉に従い、併設されているレストランへと移動する。
エルシーは、先ほど試飲した葡萄水が飲みたいと言うので、オネルヴァも同じものを頼んだ。ヘニーは遠慮していたが、オネルヴァの言葉でやはり葡萄水を頼む。ミラーンは葡萄酒を飲みたがっていたが、イグナーツに叱られるからと言葉にしたうえで葡萄水を頼んだ。
それでもテーブルの上に並んだ葡萄水は、それぞれ色が異なる。ミラーンが頼んだものだけはグラスの中で泡が弾けている。
美味しいものを楽しんでいると、イグナーツと一緒に味わいたい。そういった想いが、オネルヴァの中で育っていく。
「お母さま。エルシーは眠くなりました」
醸造所見学ではしゃいだから、疲れたのだろう。そう言った彼女は、ほっと安心したのか、今にも眠りこけそうな雰囲気である。
だが、眠そうにしているのはエルシーだけではなかった。いつの間にかヘニーも、うつらうつらとしているし、他の客も店員も居眠りを始めている。
なぜかオネルヴァも猛烈な眠気に襲われた。
目の前に、ふと人影が現れる。
「ミラーン、さん?」
「申し訳ありません、奥様。奥様には、閣下をおびき寄せるための囮になっていただきたいのです」
重くなる瞼の向こう側で、ミラーンが意味ありげに微笑んでいた。