夫42歳、妻23歳、娘7歳(1)
イグナーツと身体を繋げてからというもの、彼はより一層オネルヴァを気遣うようになった。いや、オネルヴァ自身がそう感じているだけなのかもしれない。実際、すべてを暴かれた次の日は、寝台から起き上がることができなかった。
そんな二人の関係に、周囲は敏感に気がついたようだ。エルシーは、忙しいながらも機嫌のいいイグナーツの存在に喜んでいる。
イグナーツの仕事が忙しいのは相変わらずで、それはアルヴィドがこの国を訪れているのも原因の一つであった。だからといって、アルヴィドを恨むとかそういった感情があるわけでもない。
ゼセール王国とキシュアス王国の関係は、オネルヴァだって理解しているつもりだ。
「領地へ行くことになった」
そうイグナーツが言葉を漏らしたのは、あの日から数日後のことだった。
オネルヴァは、ナイフを動かしていた右手を止めた。
「領地、ですか? 北の関所のある?」
「そうだ」
イグナーツは、いくら仕事が忙しくても、夕食の時間には間に合うように帰宅している。それがエルシーの喜んでいる理由の一つでもある。エルシーから見たら、父親と母親の仲がよいのは、やはり嬉しいことなのだろう。
「ラーデマケラス公爵が、どうしても北の関所とその周辺を視察したいと言ってな。あそこは、キシュアスとの国境でもあるし」
「そうなのですね」
アルヴィドはオネルヴァにもそこを視察したいと言っていた。それが具体的に計画されたのだろうと判断する。
「それで、急で悪いのだが。オネルヴァとエルシーは先に領地へ戻り、ラーデマケラス公爵を迎える準備をしてくれないだろうか。あちらにも人はいるが、こちらからも幾人か人は出す」
「はい」
こうやって頼りにしてくれるのも、彼がオネルヴァを信頼しているからだ。
誰かに必要とされている。信頼されている。
それだけで心の奥底に温かな光が灯る。この光を消したくない。
イグナーツの話は本当に急なもので、オネルヴァとエルシーは二日後に領地へ向かうことになった。護衛として、ミラーンをはじめとする幾人かの者が付き添ってくれるらしい。
キシュアス王国からこちらへ来たときも、国境を越えてから護衛の人数が増えた。キシュアス王国内は疲弊しており、国のために嫁ぐオネルヴァを襲うような輩もいなかったし、そこまでの考えを思いつくような者もいなかった。
だが、ゼセール国内では数年前の内戦の火種がくすぶっているとのこと。一見、平和で豊かに見える国内であるが、制圧された側の想いというものはどこかに残っている。
次の日、屋敷を出るイグナーツの背をエルシーと見送ったオネルヴァは、早速ヘニーたちの手を借りて、領地へ向かう準備を始めた。
とはいえ、何をしたらいいのかさっぱりわからない。領地にある屋敷は領主館や本邸、もしくは北の城と呼ばれているようだが、もちろんオネルヴァはそこに足を踏み入れたことがない。
「エルシーは、本邸へ行ったことがありますか?」
荷造りの合間の休憩時間に、オネルヴァはエルシーに尋ねた。
「小さいときには行ったことがあると、お父さまが言っていましたが、覚えていません。お父さまは、こっちとあっちといったりきたりしています。だけどエルシーは、ずっとここにいます」
エルシーの話にパトリックが補足する。
地方に行けば行くほど戦後の影響もあり、不安定な情勢な場所もあるという。そのためイグナーツは、最初はエルシーと共に領地へと戻っていたが、次第に彼女をこの別邸においていくようになったとのこと。
王都のほうが軍の目も届き、安全というのが理由である。
それでもパトリックが言うには、イグナーツが治めている北の国境にある領地は、他の三つの国境と比べて治安はよいらしい。だが、王都ほどではない。
その加減がわからないオネルヴァは、ここにいるときと同じようにしていれば問題ないだろうと、安直に考えていた。
荷造りをするのも新鮮だったオネルヴァは、エルシーと共にその作業を楽しんでいる。
その日も、イグナーツは夕食に間に合うように帰宅した。その時間が家族団らんの時間でもある。
「オネルヴァ。エルシーのことを頼む」
「はい」
「お父さま。お母さまのことは、エルシーがしっかりと見ています。だから、お父さまは安心してお仕事してください」
エルシーが真顔で言うと、イグナーツとオネルヴァは顔を見合わせる。
「そうですね。エルシーがいるから安心ですね。初めて行くところでしたので、少しだけ不安でした」
「大丈夫です。お父がまがいなくても、エルシーがいます」
些細な言葉であるのに、オネルヴァの心を満たしていく。
「わかった。俺がいない間、オネルヴァのことを頼んだよ、エルシー」
イグナーツの言葉に、エルシーは自信満々の笑みを顔中に浮かべた。
灰色の雲がうっすらと空に広がっていた。どこか不安な心を映し出すかのような空である。
「では閣下。奥様とお嬢様をお預かりします」
ミラーンが楽しそうに目尻を下げて口にすると、イグナーツの目尻は逆につり上がっていく。
「頼んだぞ?」
「その顔は頼むとは言っておりませんよね?」
イグナーツから幾度となくミラーンの愚痴を聞かされていたオネルヴァは、そんな二人の様子を微笑ましく見守っている。イグナーツは文句を言いながらも、彼を信頼している。そういった二人の関係が羨ましい。
「では、エルシー。馬車に乗りましょう」
「オネルヴァ、手を」
イグナーツの手を取り、馬車へと乗り込む。
「それでは、閣下。これには私が同乗しますので、ご安心ください」
「安心できない。やっぱり俺がいくから、お前が公爵の相手をしろ」
「ここにきて、そういうことを言うのはやめましょうよぉ」
ツンツンとオネルヴァは袖を引っ張られた。隣に座ったエルシーだ。
「お母さま。お父さまとミラーンさんが喧嘩しています」
二人の言い合いが、エルシーには喧嘩をしているように見えたようだ。
「旦那様とミラーンさんは喧嘩をしているわけではないのですよ。二人でじゃれ合っているだけです。ほら、仲がよいほど喧嘩もすると、絵本にも書いてありましたでしょう?」
「では、お母さまとお父さまも喧嘩をするのですか?」
真面目な顔でそう問われると、また返答に困る。
「そういうときもありますね」
そんな会話をにこやかに聞いているのは、二人の前に座っているヘニーである。
この馬車は、オネルヴァがこちらへ来た時よりも小さく簡素なものであった。
「お待たせしまして、申し訳ありません」
なんとかイグナーツの説得に成功したのか、やれやれといった様子でミラーンが乗り込んできた。
「エルシー。オネルヴァを頼む」
ミラーンの後ろから、イグナーツが顔だけ出してそう一言伝えると、エルシーは満面の笑みを浮かべた。
イグナーツに見送られて馬車は動き出す。エルシーは窓から身を乗り出して、手を振っていた。あまりにも身体を出すものだから、窓から落ちるのではないかとオネルヴァはひやひやしながら、彼女の身体を支えていた。
「ちょっと乗り心地の悪い馬車で申し訳ありません」
キシュアス王国からやって来たときよりも、小さな馬車であるのはオネルヴァも気がついた。
「今回の件は、キシュアスが絡んでいるため、あまり派手には動けないのです。奥様がこちらに来られたときと状況も異なっておりますから」
ミラーンの言わんとしていることをなんとなく察する。
オネルヴァは一部からは人質のようなものと今でも思われている。そこにアルヴィドが現れ、彼が北の領地を見学するためにオネルヴァまで動いたとなれば、と深く考える者もいるだろう。オネルヴァとアルヴィドでは立場が異なり、ここにいる意味も異なるのだ。
「ですが、護衛はきちんとついております。目立たぬように、少し離れた場所についておりますので」
「ありがとうございます」
さまざまな人の気遣いに、つんと胸が痛んだ。