夫41歳、妻22歳、娘6歳(2)
エルシーが眠りながら母親を呼ぶたびに、やるせない思いが心の中を支配した。
イグナーツでは彼女の母親にはなれない。女性特有の身体や繊細な感情など、軍人であるイグナーツにはわからないのだから。
「どちらにしろ、この結婚を君は断れない。だからこそ娘のためだと思って、これを快く受け入れろ」
それが頑なに結婚しないと言い張っていたイグナーツへの、王なりの優しさなのだろう。
「わかった。エルシーのために、この結婚を……受け入れる……」
イグナーツは、腹の底からやっとその言葉を絞り出した。
「よし。そうとなれば、早速向こうに返事をしよう」
そう言っている王だが、初めからこの婚姻は決まっていたようなものだろう。褒賞として、人質として、キシュアス王国の王女をゼセール王国に嫁がせる。
なにしろ、『無力』の王女なのだ。
キシュアス王国では不要な存在だったかもしれないが、イグナーツにとっては喉から手が出るほど必要な存在である。だからこそ、この結婚の打診をされた。
それでも断りたかった。理由は相手が『無力』だから――
キシュアス王国内の革命が成功し、王が代わって一か月が過ぎた。あの革命には、ゼセール王国からも援軍を送っており、その指揮を執ったのがイグナーツである。それは、キシュアスがゼセールの北側にある国であるため、援軍として派遣したのがイグナーツ率いる北軍であったからだ。
キシュアス王国は、ゼセール王国と比べ四分の一ほどの国土しかない。そのキシュアス王国は王族によって荒れ、民の生活は苦しくなる。生命の危機に脅かされるほどの生活を強いられた彼らは、国王の首をすり替えるべく立ち上がった。それが、革命のきっかけであると聞いている。
また、ゼセール王国軍が行ったのは、革命への後押しだけではない。
荒れていた王都テシェバの生活を立て直すために力を貸し、政策を打ち出した。それが軌道にのり、すべてをキシュアス王国の関係者に任せられると判断したところで、軍を引き上げた。
その報告をゼセール王にしたところ、結婚の話である。
キシュアス王国に数か月間滞在していたイグナーツであるが、元第二王女の話はさっぱりと聞こえてこなかった。まして、その第二王女が現国王の養女になったなど、寝耳に水。
情報をうまく操作されていたのか、隠されていたのか。
とにかく、イグナーツたちのおかげでキシュアス王国も立ち直りの一歩を踏み出した。その功績をたたえ、キシュアス王国内に滞在していた軍関係者は、長い休暇をもらえることになっている。イグナーツもその対象の一人。
だが、沸いてきたような結婚の話。
休暇中は、この結婚の準備などで忙殺されて終わるにちがいない。
やや気が重いまま、イグナーツは帰路につく。
ゼセール王国の王都には、貴族たちの別邸が立ち並ぶ地区と、市民たちの住宅の並ぶ地区がある。王城を中心に扇形に広がる王都は、王城に近い場所ほど貴族たちが多く住んでいた。
その一角にイグナーツの別邸はあった。白い外壁の凹凸の少ない建物で、いかにも別邸とわかるような造りである。この場所には同じような建物が多い。他の建物と差別をしようと思うのであれば、屋根の色や窓枠の色を変えるくらいだろう。イグナーツの別邸は、緑色の屋根と緑色の窓枠が目立つ建物だ。
「ただいま帰った」
別邸では、娘のエルシーが使用人たちに囲まれて暮らしている。
娘をおいて長期間不在にするのには不安があったが、彼女を理由に仕事を疎かにするわけにもいかない。それに、使用人たちは長くイグナーツに仕えており、信用できる者たちだ。
「お父さま、おかえりなさいませ」
フリルのついた薄紅色のドレスに身を包んだエルシーが、パタパタと駆け寄ってきた。二つに結わえているふわふわと輝く金色の髪は、イグナーツのくたびれた灰色の髪とは似ても似つかない。彼女の髪は母親の血を受け継いだものである。ただ茶色の大きな目だけは、プレンバリ家の特徴といえるだろう。
「ただいま。元気にしていたか、エルシー」
「はい。エルシーは、おりこうにしていました」
「旦那様。エルシーお嬢様は、字が書けるようになられたのですよ」
先代から仕えている執事のパトリックの口調は、まるで我が子を自慢するかのようである。
「そうか……」
なぜか悔しい。イグナーツの知らないことをパトリックが知っているのが悔しい。
「エルシーは、お父さまにお手紙を書きました」
もじもじと身体をくねらせながら、恥ずかしそうにイグナーツの前に手紙を差し出した。
イグナーツはふるふると手を震わせながらそれを受け取ると、パトリックに向かって勝ち誇った笑みを浮かべる。
「エルシー。着替えてくる。夕食は一緒にとろう」
「はい」
エルシーは顔中に笑みを浮かべて大きく返事をした。
イグナーツが私室に戻ろうとすれば、侍女がエルシーの手を引いて、別室に連れて行こうとしていた。もしかしたら、食事のために着替えをするのかもしれない。今のドレスも似合っていたが、次はどのような格好を見せてくれるのか。
心の中でニヤニヤとしていたが、イグナーツはパトリックに伝えるべき内容を思い出す。
「パトリック、俺の部屋に……」
優秀な執事は、黙って指示に従う。
懐かしい私室に足を踏み入れたイグナーツは、エルシーからもらった手紙を机の上におくと、軍服の首元を緩めた。やっと息をつけた感じがする。
上着をパトリックに預け、着替えを受け取る。
着替えを終えたイグナーツは、ソファにどさりと身体を埋めた。
「お茶を準備いたします」
軍服を丁寧に吊るし終えたパトリックは、すぐにティーセットのワゴンを運び入れた。
イグナーツも若くはないが、パトリックはもっと若くない。なによりも、イグナーツの父親から仕えているのだ。
「無理はするな」
ついそのような言葉が口から出てしまう。
「とうとう旦那様も、私を年寄り扱いするようになりましたか」
からりと笑ったパトリックは、イグナーツの前にお茶を差し出した。
「お前も座れ」
イグナーツが顎でしゃくりながらそう言えば、彼も断れない。
失礼しますと、パトリックは向かい側に座った。
だがイグナーツから誘ったわりには、なかなか言い出しにくい。とりあえず目の前のお茶に手を伸ばし、喉を潤してから切り出すことにした。
「結婚をすることになった……」
ひっと息を呑んだパトリックは、これでもかというくらい大きく目を見開いた。何か言いたそうに口をぱくぱくとさせているが、言葉は出てこない。
「そんなに、驚くことか?」
ひゅっと空気の漏れる声が聞こえた。パトリックはなんとか必死で呼吸しようとしており、はぁと大きく息を吐く。
「旦那様がとうとう……。このパトリック、旦那様のお子様をこの腕に抱くのが夢でした。もしや、その夢が叶うのでしょうか」
パトリックにそのような夢があったとは、イグナーツも知らなかった。だが、こうやって感傷に浸られていたら、話はすすまない。
「その相手が問題だ。そして陛下からの命令だから、断れない」
自分の意思ではないという強調をしておく。そう、この結婚は国王からの命令なのだ。
「どなたですか?」
今にも泣きそうであったパトリックも、イグナーツの言葉で相手が気になったのだろう。少しだけ、身を乗り出してきた。
「キシュアス王国元第二王女、今は第一王女になるのか?」
その言葉に、パトリックは眉間に深く皺を刻んだ。ただでさえ皺の多い顔に、さらに皺が増える。
「お前……。もしかして、知っていたのか?」
パトリックはソファに深く座り直した。
「何を、ですか?」
「キシュアスに王女が二人いたことを」
パトリックが非常に長く息を吐く。それがイグナーツから見たら、わざとらしい。
「そうですね。先代がそのような話を口にしていたことがありましたので。二人目の王女が誕生したと聞いていたのに、いつの間にかいなくなっていると……。なるほど、そのお方が旦那様のお相手なのですね?」
「ああ。キシュアスから見たら、こちらに嫁がせるのは人質のようなものだろう」
「そうなりますね。ですが我々は、キシュアスの王女様であっても、喜んで奥様として受け入れます。たとえ旦那様がそれを望んでいなくても」
やはりイグナーツの気持ちは知られていた。