妻を奪われた夫と夫に会いたい妻(1)
すべてが初めてのオネルヴァにとっては、そこは未知の世界であった。
アーシュラ王女と国王夫妻に挨拶をし、イグナーツとダンスをする。たったそれだけのことなのに、緊張で胸が苦しくなっていた。
どこにいたらいいのかもわからない。どこを見たらいいのかもわからない。
「オネルヴァ?」
そんな緊張のあまり、ダンスの最中であったにもかかわらず気持ちが上の空だったようだ。
「君のダンスは、とても素敵だな。俺は、あまり得意ではないから」
「いえ、旦那様のリードがお上手なのです」
少しだけ上を見て、イグナーツの表情を読み取ろうとする。だが、彼女の視線に気づいた彼は、口元を緩く綻ばせていた。
「どうかしたのか?」
「い、いえ……」
顔も近い。身体も密着している。いつもいるはずのエルシーはいない。
心臓は高鳴っているが、身体は勝手に音楽に合わせていた。ダンスもマナーも、痛いくらいに叩き込まれた。それが今、役に立っている。
音楽が途切れた隙を見計らったかのように、イグナーツがオネルヴァの手を取りダンスの輪から抜け出した。
「とりあえず一曲は踊ったから、文句は言われないだろう」
そうやって本音をこぼす姿は、どこかエルシーと重なる部分がある。
オネルヴァからもくすりと笑みが漏れた。
「それとも、踊り足りなかったか? 君がもっと踊りたいなら、付き合うが?」
「いえ……。緊張しているからか、少しだけ疲れてしまいました」
「飲み物をもらってこよう。ここにいなさい」
イグナーツが周囲を牽制するかのように、ぐるりと見回してから給仕に近づく。
先ほどから、ちらちらと視線は感じていた。今も周囲からは、一人になったオネルヴァの様子をうかがうような仕草が感じ取れる。だから、けして彼らと目を合わせてはならない。
オネルヴァの視線は、イグナーツの姿を追っていた。
「プレンバリ夫人」
オネルヴァをイグナーツの妻であると認識したうえで声をかけてきた男がいる。
「へ、陛下……」
魔石灯で作られたシャンデリアの光によって、目の前の男の金色の髪は艶やかに輝いている。イグナーツよりはいくらか年上とは聞いてはいたが、その年齢を感じさせないのは、やはり彼の立場が関係しているのだろうか。
「私と一曲お願いしたい……と言いたいところだが、あなたの夫君が睨みをきかせながらこちらに来ているからなぁ」
国王の視線の先を追えば、ひきつった笑みを浮かべているイグナーツが立っていた。
「へ、い、か。なぜこちらに?」
このような表情のイグナーツを見たことがない。彼は手にしていたグラスの一つをオネルヴァに手渡すと、背中でかばうような仕草を見せる。
「せっかくだから、ダンスに誘おうと思ったのだよ」
「彼女は俺のパートナーですが? 彼女を誘う前に、俺に断るのが礼儀ではありませんか?」
「側にいなかったからね。てっきり、お一人かと思ったのだよ」
「そんなわけあるはずないことを知っていての行為ですよね」
「もちろん。君が離れたのを見計らって声をかけた」
オネルヴァはそんな二人の男を、交互に見つめていた。
「残念でしたね、陛下。俺は許可しない。どうぞ、他の方と踊ってください」
イグナーツの手がオネルヴァの腰に回り、引き寄せる。
「ふん。なんだって、つまらないやつだな。だが、昼間も今も、面白いものを見せてもらったから、私は満足だよ。まぁ、二人で楽しんでくれたまえ」
ニタリと意味ありげに笑った国王は場所を移動し、周囲にいた他の者たちと談笑を始めた。
「少し、外に出ないか?」
イグナーツが耳元でささやき、オネルヴァは小さく「はい」と答える。グラスに口をつけ、少しだけ喉を潤した。
彼の腕をとったオネルヴァは、途中で給仕にグラスを返して、バルコニーへと向かう。
外へ出た瞬間、熱気に包まれた身体にさわやかな風がまとわりつく。
「ここから、街が一望できるんだ」
彼に案内されながら、バルコニーの手すりへと近づいた。
「あのあたりに屋敷がある」
暗い空には星が満点に輝いているが、見下ろす街には魔石灯による明かりがぽつぽつと灯っていた。
「エルシーは、おやすみになりましたかね?」
普段のエルシーであれば、すでに寝台へと潜り込んでいる時間帯だ。だが、このパーティーはまだまだ続く。
「そうだな。もう、そんな時間か……」
そう呟くイグナーツの言葉の裏には「もう、帰りたい」という意味が隠されているようにも感じられた。オネルヴァがそう思ったのも、なんとなく彼という人物がわかりかけてきたような気がするからだ。
頬を撫でつけていく風は、昂った身体の熱を奪っていく。
じっと街を見下ろす二人の間に、沈黙しかない。だが、それすら心地よい。
あれほどガチガチに緊張していたはずなのに、二人で熱気と賑やかさから逃れてきた共犯的な関係が、それを和らげてくれたのだろう。言葉はなくても側にいてくれるだけで、なんとなく心が落ち着いた。
どうしてそのような気持ちになるのかはわからない。彼と『家族』になったからだろうか。
「今日の君は、いつにもまして綺麗だ……」
その言葉でぽっと火がついたように頬が火照る。明るい魔石灯の下でなくてよかった。このような顔を、彼には見られたくない。
だが、唐突なイグナーツの言葉の意味がわからない。少しだけ顔を伏せる。
「本当は、もう一曲くらい君と踊りたいのだが」
そう言った彼は、オネルヴァの左手を取ると、その甲に口づけた。
「旦那様?」
「だが、君が踊っていると、君を誘いたそうな男どもの視線が気になって仕方ない。だから、俺は一曲であきらめた」
「は、はい……」
これでは彼がオネルヴァに好意を持っているようではないか。いや、イグナーツの妻という立場にある以上、きっと他の男と踊ってはいけないのだ。
「お屋敷に戻りましたら、今度はエルシーも誘って一緒に踊りましょう」
オネルヴァが顔をあげると、すぐ目の前にイグナーツの顔があった。
「旦那様? どうか、されましたか?」
「い、いや……。俺も、こういった場にこの立場で参加したのは、初めてに近いからな。やはり、気疲れしてしまったようだ」
「では、もう少しここで休んでから戻りませんか?」
オネルヴァはバルコニーに備え付けてある長椅子に視線を向ける。
「そうだな、そうするか」
イグナーツと並んで長椅子へ移動しようとしたところ、城内へと続く扉が勢いよく開き、バルコニーへと出てきた人物がいる。
「閣下。こちらにいらしたのですか」
ミラーンが急いでこちらに向かってくるが、その声は落ち着いていた。
「なんだ。やることはきちんとやった」
「そうではありません。少し、よくない噂を小耳に挟んだもので」
ミラーンはイグナーツの肩越しにオネルヴァを見やった。
「旦那様。わたくしのことはお気になさらず。もう少し、こちらで休んでおりますので」
「奥方様、申し訳ありません。少し、閣下をお借りいたします」
ミラーンは、ヒシッと腰を曲げる。
その場を離れるイグナーツは、五歩進んでは振り返り、また五歩進んではオネルヴァの様子を確認し、さらに五歩進んで振り返ると、いい加減、ミラーンに腕を引っ張られるようにして連れていかれた。
城内からは、窓越しに光と音楽が漏れ出てくる。それに視線と耳を傾けながら、オネルヴァはぼんやりと空を眺めていた。
イグナーツとの関係がわからない。「家族」であり「妻」でありながらも、本当の「妻」ではない。彼は、妻はいらないと言っていたからだ。
だからこの三か月は、エルシーの「母」として、彼の「見かけだけの妻」として、オネルヴァなりに考えて行動していたつもりであった。
しかし、治療と称して唇を重ね、共寝し始めてから、彼の態度が変わったようにも感じる。それも、日が過ぎるにつれ徐々に変わってきたのだ。
イグナーツがわからないといえばわからない。もしかしたら、エルシーの母親役として不十分なのではないだろうかと、そう不安に駆られるときもある。それくらい、彼がわからない。
オネルヴァはイグナーツにとってはただの治療役なのだ。
だから、期待してはならない。
膝の上の手を、ぐっと握りしめた。
空には、数えきれないほどの星が瞬いている。