妻を愛している夫と夫を気にする妻(4)
「……オネルヴァ?」
イグナーツのものとは違う男性の声が、彼女の名を呼んだ。
噴水の向こう側に、数人の人影が見えたが、それでも金色の髪の持ち主だけははっきりとわかった。
「アルヴィド……お兄様……」
オネルヴァの声に反応したのは、イグナーツであった。彼も後ろを振り返る。
アルヴィドは周囲にいた人に言葉をかけてそこから抜け出すと、オネルヴァへゆっくりと歩み近づいてくる。残された人々は、何かしら歓談しながら別の場所へと足を向ける。
エルシーが、握っている手に力を込めてきた。
「オネルヴァ、元気そうだな」
「あっ……はい。あの……こちらが……」
イグナーツとエルシーを紹介せねばという気持ちが働いた。だが、イグナーツはオネルヴァとエルシーを背にして、アルヴィドと向かい合う。
「お初にお目にかかる。イグナーツ・プレンバリだ」
「あぁ……あなたが……。初めまして、アルヴィド・ラーデマケラスです」
空気がピンと張り詰めた感じがした。
オネルヴァの手からエルシーが離れる。
「初めまして。エルシー・プレンバリです」
ドレスの裾を持ち上げて、淑女のように挨拶をするエルシーの一言で、ふわっと風が凪いだように感じた。
それでもアルヴィドの視線は鋭い。まるでイグナーツとエルシーを値踏みしているかのような、そんな雰囲気である。
「エルシー。こちらは、わたくしの兄ですのよ」
オネルヴァは努めて明るい口調でそう言った。エルシーは首を傾げる。
「お母さまのお兄さま?」
「えぇ。エルシーから見れば、伯父になりますね」
ここまで口にして、アルヴィドがエルシーから「伯父さん」と呼ばれるのを想像してしまう。
「アルお兄様と、呼ぶのはどうかしら」
オネルヴァ自身も、アルヴィドが「伯父さん」と呼ばれることに戸惑いがあった。伯父に間違いはないのだが、それを言葉にしてしまうのは何かが違う気がする。
「アルお兄さま……?」
エルシーが、この気まずい空気を吹き飛ばしてくれるだろうことを、密かに期待していた。
キシュアス王国にいたときに、アルヴィドのこのような表情を見たことがない。いつも険しい顔をしながらも、その目の奥にはどこか優しい光が灯っていたのだ。
だが今は違う。その優しい光は消えたまま。
そしてイグナーツも厳しい表情をしている。
キシュアス王国とゼセール王国。二つの国の問題と言われてしまえば、オネルヴァの知らない何かがあるのだろうとは思うが、義兄と夫である。
どちらも大事な家族なのだ。
「よろしく、エルシー」
アルヴィドの一言で、ふわりと穏やかな風が吹いたような気がした。
「オネルヴァ。そろそろアーシュラ王女殿下もいらっしゃる。向こうに戻ろうか」
イグナーツがオネルヴァの背に手を回し、抱き寄せる。突然の行為にオネルヴァは驚きを隠せない。
「だ、旦那様……?」
「あぁ、すまない。いつもの癖でつい」
イグナーツがこのようにオネルヴァを抱き寄せるのは、今までにも何度もあった。だが、彼は人前でこのようなことをする男ではない。それに、いつもの癖というほどこういった行為があるわけでもない。
オネルヴァは静かにイグナーツの腕をとる。
「アルお兄さま。エルシーと手をつないでください」
エルシーの発言に、オネルヴァはヒヤヒヤとした。アルヴィドから感じられた冷たい視線を考えると、彼が断るのではないか。それによって、エルシーが傷つくのではないかと瞬時に考えた。
「エルシーもお母さまのように、エスコートされたいです」
可愛らしい願望に、アルヴィドの顔も思わず綻んだように見えた。
「そうか。では、お姫様。お手をどうぞ」
アルヴィドとエルシーの手がしっかりと繋がれたのと見届けると、オネルヴァもほっと胸をなでおろした。
目の前をアルヴィドとエルシーが並んで歩いている。その数歩後ろを、イグナーツとオネルヴァが並んで歩いていた。
向かう先は、ガーデンパーティーのメイン会場である。そろそろ本日の主役であるアーシュラが姿を現す。そこでみな、お祝いの言葉を述べるのだ。
「旦那様?」
オネルヴァは隣で肩を並べるイグナーツを見上げた。彼は真っすぐ前を見つめており、何を考えているのかさっぱりわからない。
エルシーを見失ってしまったことを咎められるのかと思ったが、そうでもなかった。
「なんだ?」
無視はされなかった。
「いえ……。エルシーのこと、申し訳ありませんでした」
「いや。まあ、そうだな。とにかく、心配したんだ。君たちが、何か事件に巻き込まれたのではないかと……」
「……はい。ご迷惑をおかけしました……」
甘い花の香りにまぎれて、食欲をそそるようなご馳走のにおいも漂い始める。
「あのときの君は、きっとこんな気持ちになったのだろうなと、俺も知ることができた」
あのとき――。それがどれを指すのかオネルヴァにはわからなかった。
パーティーのメイン会場に着くと、リオノーラとシャーロットの姿も確認できた。シャーロットと手を繋いでいたジョザイアは、エルシーの姿を見つけると、その手を振り解き、すたすたと背筋を伸ばして近づいてくる。
「エルシー」
なぜかジョザイアはむっと唇を引き締め、エルシーに向かって手を伸ばす。
エルシーは驚いて、目を丸くする。アルヴィドを見上げてから、助けを求めるようにしてオネルヴァとイグナーツを見つめる。
アルヴィドは腰を折って、エルシーの耳元で何かを囁いた。エルシーが頷いたかと思うと、ぱっとアルヴィドと手を離す。そして、ジョザイアと手を繋いでシャーロットのほうへと歩いていく。
「振られてしまった」
アルヴィドがおどけたような仕草で、オネルヴァの隣に立つ。すると、イグナーツは少しだけオネルヴァを引き寄せた。
「誰だ?」
オネルヴァの耳に、彼の熱い息が触れる。
誰だ――。
その意味を少しだけ考える。
「東のバニスター閣下のご子息のジョザイア様ですよ」
イグナーツは難しい顔をして、それ以上は何も言わなかった。
「どうやら、閣下は娘を取られたのが面白くないのでしょう」
アルヴィドの言葉で納得する。イグナーツがエルシーを可愛がっているのは、もちろんオネルヴァも知っている。
「ですが、旦那様もエルシーに友達ができたほうがいいと、おっしゃっていたではありませんか」
ここに来る馬車の中で、そのようなことをイグナーツは口にしていたはずだ。
「まぁ、そうは言ったが……。あの子は男じゃないか」
イグナーツの言う通り、ジョザイアは男児である。
「そうですが?」
アルヴィドがくつくつと笑っている。
「お兄様?」
「いや……。閣下はなかなか気難しい男のようだ」
その言葉にイグナーツは、ひくっとこめかみを動かした。
「オネルヴァ。では、また後で」
そう言ったアルヴィドはひらひらと手を振り、文官たちが集まっている輪の中へと消えていく。
その様子を、イグナーツは眉頭に力を入れて見つめていた。そんな彼に、オネルヴァももちろん気がついていた。
パーティーの主役であるアーシュラ王女が入場し、オネルヴァもイグナーツと共にお祝いの言葉をかける。
アーシュラの隣には国王と王妃が寄り添っていた。
オネルヴァがゼセール国王と顔を合わせるのも初めてであった。イグナーツは国王と幾言か話をしており、オネルヴァは黙ってその様子を見ていた。
だが、その国王の視線がオネルヴァを捕らえる。
「それ以上、見るな。もういいだろう?」
「ああ。お前のそんな表情を見ることができたから、満足だ。ミラーンが言っていた通りで安心したよ」
オネルヴァはイグナーツに引っ張られるようにしてその場を後にした。