妻を愛している夫と夫を気にする妻(2)
収穫の月に入ると、地方に広がる田畑は黄金に染まっていく。朝日を浴びる稲穂はキラキラと金色に輝き、まるで金塊のようであるとも言われている。
この収穫の月に行われるのがゼセール王国第一王女アーシュラの誕生日パーティーであった。しかも、今年は十六回目の誕生日とのことで、例年よりも盛大に開かれる。
というのも、このゼセール王国では十六歳から成人として扱われるからだ。アーシュラの十六回目の誕生パーティーが、そのまま彼女の社交界デビューとなる。それが、ここの慣例でもあった。
オネルヴァは馬車の向かい側に座るイグナーツに視線を向けた。彼はむっつりとした表情で腕を組んでいる。式典用の真っ白い軍服に身を包む姿を見たのは、初めてかもしれない。
隣に座るエルシーは朝からそわそわとしていた。聞けば、彼女もこういった大きなパーティーに参加するのは初めてとのことだった。
昨年までのパーティーではイグナーツは仕事で参加していたため、エルシーはお留守番だったと不満そうに言っていた。
「どうかしたのか?」
オネルヴァの視線に気がついたイグナーツは、柔らかな笑みを浮かべる。年齢を感じさせないその笑顔に、オネルヴァの胸も高鳴った。
彼との夫婦生活は、妻としては求められていないが、魔力の無効化役として隣にいることを許されている。だから、たまに治療行為としての口づけを交わし、魔力無効化のために共に寝るようになった。
人肌に慣れていないオネルヴァにとっては、その行為に戸惑いを感じつつも、誰かの温もりに触れるのは嫌ではなかった。
むしろ、心にぽっかりと空いていた穴を埋めてくれるような、そんな存在なのだ。
「いえ。ただ、このような大きな催し物は初めてですので……」
キシュアス王国にいたときは、オネルヴァはその存在すら認められていなかった。だからもちろん、社交界デビューすらしていない。となれば、こういった華やかで大きなパーティーに参加したことはない。
「お母さま、エルシーも初めてです。だから、緊張しています」
背筋を伸ばしたエルシーは、膝の上でピシッと両手を揃えていた。そんな彼女の姿を目にしただけで、ふっと心が軽くなった。
「まぁ、エルシー……。今からそんなにしていたら、疲れてしまいますよ」
オネルヴァはそっとエルシーの両手を包んだ。
ふっくらとした小さな手に触れたら、オネルヴァの身体からも強張りが解けていくような気がした。
「昼間はエルシーと同じような子たちも多く集まるガーデンパーティーだ。だから、そんなに緊張する必要はない」
「だけど、お父さまも緊張していませんか?」
「ん?」
エルシーはオネルヴァの隣からイグナーツの隣にひょこっと移動する。
「お父さま。ずっと怖い顔をしていました」
「そ、そうか?」
イグナーツは慌てて自身の頬に触れていた。
「緊張しているわけではなくて、だな……。まあ、気が重いというやつだ」
こうやって彼が自分の気持ちを包み隠さず言葉にするところにも、なぜか好ましいとさえ感じる。
「どうしてですか? 嫌いな人がいるのですか? お父さまがいじめられたら、エルシーが仕返しします」
「それは……大丈夫だ」
イグナーツが優しく微笑むと、エルシーもニコリと笑う。
「今日は、エルシーと同じような子たちも集まるから。きっと、友達もできるだろう」
友達という言葉に、なぜかオネルヴァの胸は痛んだ。
カタッと馬車が止まる。外側から扉を開けられ、先にイグナーツが降りた。
オネルヴァが降りようとすれば、彼が何も言わずそっと手を差し出してくれたので、黙ってそこに手を重ねる。すると、身体がふわりと浮いた。
腰にしっかりと手が回され、抱き上げられたのだ。気づけば、地面に足がついていた。
「エルシーも」
その様子をしっかりとエルシーに見られていたらしい。
恥ずかしさで熱を帯びた頬を感じながら、イグナーツがエルシーを抱き上げる様子を見ていた。
彼女のラベンダー色のドレスの裾がふわっと広がる。
「お母さま」
何かもの言いたそうな眼差しでオネルヴァを見上げてくる。
オネルヴァは、エルシーの白くて小さな手を握りしめる。
「お父さま」
彼女のもう片方の小さな手は、イグナーツがしっかりと握りしめ、会場となる庭園へと足を向けた。
入口にはイグナーツの顔見知りが警備と称して立っていたようで、彼は幾言か言葉を交わしてから、中へと入る。
「うわぁ」
屋敷の庭とは違い、広くて解放感溢れる庭園に、エルシーは思わず声を漏らしていた。その感動は続いていたようで、ぽかんと口は開けっ放しになっている。
「しっ」
イグナーツに指摘され、彼女は慌てたように口を閉じる。
花のアーチによって作られた一本道を進むと、一気に視界が開ける。その先で何かが動いている様子が見えるが、それはすでに会場を訪れている招待客だろう。
「イグナーツ殿」
会場に着いた途端、イグナーツは誰かに声をかけられた。
「貴殿が、このような場にそのような姿で参加するのは初めてではないのか?」
イグナーツは苦笑している。
「相変わらず気の利かない男だな。さっさと俺のことを紹介しろ」
そう口にしている相手は、彼と同じくらいかいささか年上に見えた。
「オネルヴァ。こちら、レジナルド・エルズバーグ将軍だ。西のエルズバーグ領を治めている」
となれば、彼が西の将軍なのだろう。ゼセール王国の四方は、それぞれ将軍が領主として治めていると聞いている。
挨拶を、と耳元でささやかれたオネルヴァは、ぱっとエルシーと手を離してドレスの裾を持ち上げた。
「お初にお目にかかります。オネルヴァと申します」
「エルシーです」
エルシーも拙いながらも、同じように挨拶をした。
「イグナーツ殿が今まで隠していた理由がわかったよ」
レジナルドは、ははっと笑う。
「おい」
そんな彼は、少し先にいた女性に声をかけた。焦げ茶の緩やかに波を打つ髪の女性がくるりと振り返る。
「私は『おい』という名前ではないと、何度申し上げたらわかるのでしょうか」
意志の強そうな目が印象的である。年はレジナルドよりもいくらか若いようにも見えたが、オネルヴァよりは年上だろう。年相応の落ち着きというものが感じられた。
レジナルドは隣に女性を呼び寄せ、何やら耳打ちをする。その言葉に、女性の表情もぱっと明るくなっていく。
「私の妻、リオノーラだ。リオノーラ、こちらがイグナーツ殿の……」
リオノーラは気さくな女性であった。
「はじめまして、オネルヴァ様。リオノーラです。ですが……私よりも、娘に近い年頃ね」
ころころと笑うリオノーラを見て、罰の悪そうな顔をしていたのはイグナーツである。
「こんにちは、エルシーさん」
リオノーラの一言で、先ほどから緊張でガチガチに固まっていたエルシーの頬が、少しだけゆるんだ。
「夫からあなたたちの話を聞いて、是非とも仲良くなりたいと、そう思っていたのです」
笑うと微かにほうれい線が刻まれる。だが、けして老いを感じるものではなく、温かみを感じるようなものであり、好感が持てた。
オネルヴァはすっと息を吸う。
「わたくしも、このような場が初めてでして……。いろいろと教えていただけると、大変助かります」
「まぁ。そんなにかしこまらないで。早速だけれど、あなたたちに紹介したい方がいるのよ。エルシーさんも、同年代のお友達が欲しいわよね」
前の言葉をオネルヴァにかけ、後の言葉はエルシーを見て言う。
「おい」
「ですから、私は『おい』という名ではないと、何度も申し上げておりますよね?」
「ノーラ。少し、落ち着きなさい」
「あら、私はいつだって落ち着いておりますわ」
オネルヴァはどうしたらいいものかと考えた。レジナルドとリオノーラは喧嘩をしているわけではないのだろう。
ぽんぽんとやり取りしている会話の中にも、互いを信頼しているような、そんな気持ちが見え隠れする。
「閣下、オネルヴァ様をお借りしますわね」
そんなリオノーラの勢いに負けたのか、イグナーツは頷いていた。