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妻が気になる夫と娘が気になる妻(5)

◇◆◇◆ ◇◆◇◆


 年甲斐もなく、彼女に反応してしまったことを恥じていた。

 目の前で食事の準備をしている彼女を意識しないように、気持ちを鎮める。

 だが、じっと彼女を見つめ過ぎたようだ。

 イグナーツの視線に気づいたオネルヴァは首を傾げてニッコリと笑う。

「どうかされましたか? まだ気分がすぐれませんか?」

「いや……」

 そう答えてみるが、腹の奥底には怒りの火種がくすぶっていた。あれだけイグナーツをたぎらせておきながら、その原因を作った彼女は、何事もなかったかのような表情をしている。

「旦那様、食事の準備が整いましたので。わたくしは先に休ませていただきますね」

 その場を立ち去ろうとする彼女の手首を、がしっと掴む。

「今日は、その……君と共に寝たいのだが?」

 そう言葉をかけたときの、彼女の反応が見たかった。少しは意識してくれるのだろうかという淡い期待を抱きながらも、やはりそのような感情が生まれている事実が腹立たしくも感じる。

 自分で自分の気持ちがわからず、うまく制御ができない。

「承知しました。旦那様のお部屋にいけばよろしいですか?」

「いや……二人の部屋で……」

 口の中がからからに渇いていた。

「はい。旦那様の魔力が、まだ安定していないのですね」

 違う、と言いたかったが、その言葉を吞み込んだ。彼女に振り回されているのが悔しい。

「今も、お側にいたほうがよろしいでしょうか?」

 即答できなかった。

 いて欲しいし、いて欲しくない。

「いや……先にいって休んでいなさい……。今日はこのような時間にまで付き合ってくれて、ありがとう……」

 彼女の手首を解放した。

 オネルヴァは蕩けるような笑みを浮かべて、頭を下げた。

 部屋を出ていくまでの一連の動作を、目で追ってしまう。

 扉がしっかりと閉じられてから、イグナーツは深く息を吐いた。

 なぜに、二人で寝たいなどと口走ってしまったのか。

 心のどこかに罪悪感すら芽生えている。

 イグナーツがこの時間に食べるのは、野菜や肉を柔らかく煮込んだスープである。時間も遅く、年も年であるため、食べ物によっては次の日に影響も出る。だからといって食べないでいると、寝台に潜り込んで休もうとしたときに、一気に空腹を感じる。

 そのような中でちょうどよく食べられるのが、このスープなのだ。

 薄い味付けは素材の味を生かすためと、イグナーツの身体を考えてのことだろう。

 だが今は、何も味を感じなかった。ただ紙を食べているような感覚にとらわれる。

 それでも義務的に手を動かし、スープを腹の中へとおさめていった。

 食べ終えた食器をワゴンへと戻す。呼び鈴を鳴らせば、この時間であってもパトリックが取りにくるだろう。だが、時間も時間なだけに気が引けた。

 部屋の外に置いておけば、気がついた誰かが片づけてくれる。

 そろりと立ち上がったイグナーツは、執務席に深く座る。急ぎの書類に目を通し、必要なものには押印する。

 いや、むしろ急ぎの案件などない。イグナーツが不在であってもパトリックをはじめとした使用人たちがなんとかしていたのだ。

 最後の一枚の押印を終え、背中を椅子に預けた。ギシリと音が響く。

 少し頭が痛いような気がした。手の甲を額に押し付け、目を閉じる。

 間違いなくイグナーツはオネルヴァを意識している。彼女がここに来ることでそうなることは最初からわかっていた。きっと、彼女に惹かれるだろうと。イグナーツの本能が彼女を求めるだろうと。

 だから最初にわざと牽制した。彼女に求めるのはエルシーとしての母親であって、イグナーツの妻ではない。それは、イグナーツ自身に言い聞かせる言葉でもあった。

 だが、オネルヴァはイグナーツを家族だといい、救ってくれた。突き放したつもりだったのに、いつの間にか彼女に引き寄せられていた。

 それが『無力』の力なのだ。イグナーツはいずれオネルヴァを求めるようになる。それがわかっていたからこそ、この結婚を引き受けたくなかった。

 それでもエルシーを盾にされてしまっては引き受けるしかなかった。

 そう思い返しながらも、本当にそうなのかと自問する。

 エルシーを言い訳にしているだけではないのだろうか。

 椅子を軋ませながら立ち上がり、部屋を出た。


 すべてを整えて、隣の部屋へ行こうと扉を開けた瞬間、すぐさま這うようにして一筋の光が伸びていく。その光が辿り着いた先には寝台がある。

 物音を立てぬように静かに扉を閉めれば、闇に包まれる。目が慣れるまでその場に立ち尽くし、周囲がほのかに認識できるようになったところで、そろりそろりと寝台へと向かう。

 規則正しい寝息が聞こえる。

 掛布は胸元までにしかかかっておらず、胸が静かに上下している。日に日に暖かさが増す季節であっても、夜はぐんと気温が下がる。

 掛布に手を伸ばしたイグナーツは、それを彼女の肩が隠れるくらいの位置にかけ直した。

「んっ……」

 規則性が途切れた。慌てて彼女から手を引く。起こしてしまっただろうか。

 彼女に触れたいと思いながらも、触れるのが怖い。この情欲に気づかれるのが恐ろしい。

 すぅすぅと、再び規則的な寝息が聞こえてきた。

 共に寝たいと口にしたイグナーツであるが、それは彼女が戸惑う様子をみたいという意地悪な気持ちも働いた。

 それも彼女はなんの疑いもなくその言葉を受け入れた。

 彼女がイグナーツを想う気持ちと、イグナーツが彼女を想う気持ちは異なるものだろう。

 オネルヴァはイグナーツを「家族」と呼ぶ。すなわち、見返りを求めない無償の愛というものだ。だが、イグナーツはオネルヴァに触れたい。彼女を感じて、交わりたいと思っている。そういった邪な感情があった。

 寝台に腰をおろし、彼女の顔を見下ろす。あどけない寝顔は、実年齢よりも幼く見える。子どもほど年の離れている彼女に、この気持ちを知られたくない。

 静かに頭に触れ、優しく撫でる。手触りのよい絹糸のような藍白の髪は、いつまでも触れていたいとさえ思う。

 彼女の身体が震えたため、イグナーツは慌てて手を引いた。

 寝台を軋ませながら、ゆっくりと立ち上がる。

 このままここにいては危険だ。

 彼女の肩までしっかりと掛布がかかっているのを確認してから、音を立てぬように静かにその場を去った。

 後ろ髪を引かれる思いで部屋を出る。扉をなかなか閉められない。できることなら、彼女の側にいたい。

 だけど、いたくない。

 静かに扉を閉めた。


 次の日の朝――。

 なぜかオネルヴァの顔をまともに見ることができなかった。一緒に寝たいと口にしたのに、彼女から逃げ出したのだ。

「旦那様、どうかされましたか?」

 先ほどからチラチラと彼女を見ては視線を逸らし、また彼女を見ていた。その仕草に気づかれたのだろう。

「いや……」

 オネルヴァの隣にはエルシーもいる。迂闊なことは言えない。

「お父さま。お仕事のしすぎです。だから、疲れているのだと思います」

 エルシーが真顔で訴えてくる。

「そうですね。今朝も早く起きたのですよね。もう少し、ゆっくりされてはどうですか? それともやはり、いろいろとお忙しいのでしょうか」

 オネルヴァの言葉で、イグナーツはなんとなく彼女が考えていることを察した。

 一緒に寝たが、イグナーツが先に起きたと思っている。

「あ、ああ。休み明けというのもあったからな。少々仕事がたまっていた」

 この言葉に偽りはない。毎日、目を通さなければならない書類はある。イグナーツ以外の者が確認すればいいものはそちらに回すが、どうしてもイグナーツの決裁が必要なものだってある。そういったものは、いつまでも机の上の場所をとっていた。

「まだ、お仕事は忙しいのですか?」

 そうエルシーに聞かれてしまっては、「もう、大丈夫だ」としか答えられない。

「今日は、早く帰ってきますか?」

 エルシーの目がきらきらと輝いている。こうやって帰りを待っていてくれるのは、嬉しい。そして、そのような表情を見せるエルシーが可愛い。

「ああ。できるだけ早く帰ってくるよ」

「今日は、お母さまと一緒に、ラベンダースティックを作るのです。お父さまの分も作りますね」

「ラベンダースティック?」

 イグナーツには聞き慣れない言葉だ。

「はい。本当はエルシーと匂い袋を作ろうと思っていたのですが、この時期はラベンダーが綺麗ですので。ラベンダーの香りを楽しめるように、スティックにしようと思っています」

「どういうものだ?」

 イグナーツはラベンダースティックなるものがわからない。目にしたことがあるかもしれないが、そのものがわからないのだから、わからない。

「それは……」

 どう表現したらいいのかと、オネルヴァも悩んでいる様子だった。

「できてからの、お楽しみです」

 そう答えたのはエルシーだった。


*~*~苺の月二十二日~*~*


『きょうは おかあさまとラベンダースティックをつくりました

 ラベンダーを リボンでくるくるとまいていきます


 おかあさまのつくったものは とてもきれいでした

 エルシーのは ちょっとだけ がたがたになりました


 おとうさまにあげたら とてもよろこんでくれました

 おかあさまにあげたら おどろいていました


 つぎはもっときれいにつくりたいです

 ラベンダーは とてもいいにおいがします』


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