妻が気になる夫と娘が気になる妻(4)
からっとした青空の日差しから逃れるかのように、鍔の大きな帽子をかぶって影を作る。
ラベンダーを摘んでいるオネルヴァとエルシーに、日傘をさしてさらに影を作っているのは、ヘニーとリサである。
「おかあさま、これくらいでいいですか?」
「そうですね。これだけあれば充分ですね」
エルシーの籠の中には、びっしりとラベンダーが入っていた。つい、夢中になって摘み取ってしまった。
オネルヴァはエルシーと匂い袋を作ろうとしていた。だが、時期的にラベンダーが楽しめると庭師からも聞き、匂い袋ではなくラベンダースティックにしてはどうかとエルシーに提案した。
すると彼女は、顔中に喜びの笑みを浮かべた。
摘みたてのラベンダーは水分が多くて折れやすいため、一日程乾燥させてから作る。
「奥様、お嬢様。お茶の準備が整っております」
摘んだラベンダーは、風通しのよい日陰に吊るした。それが終わったところで、ヘニーに声をかけられた。
「エルシー。喉がかわきましたね」
「はい」
元気よく返事をするエルシーに微笑んでみるが、やはりイグナーツとよく似ている。父と娘ではなく、伯父と姪であると知ってから十日程過ぎた。だからといって、何かが変わったわけでもない。
「お母さま」
唇の端に、ケーキのクリームをつけながらも、エルシーは真剣な顔でオネルヴァを見つめていた。
「どうしました? 何か、悩み事でも?」
「やっぱり、お父さまとお母さまは、結婚式をしたほうがいいと思うのです」
「急にどうしました?」
オネルヴァが腕を伸ばして、エルシーの口の端のクリームをぬぐう。
「お父さまとお母さまがきちんと結婚式をすれば、二人の間に赤ちゃんが生まれて、エルシーはお姉さまになれると思うのです。結婚式をしないから、赤ちゃんが生まれないのです」
彼女の口ぶりから察するに、エルシーなりに一生懸命考えた様子が伝わってくる。
オネルヴァはそれにどうやって答えたらいいのかがわからない。
エルシーが妹か弟を欲しがっているのは、今までの言動からもなんとなく察していた。だが、その言葉ときちんと向き合わず、曖昧なやりとりで逃げていたのも事実。
「そうですね。ですが、子は授かりものですから、望んでもすぐに生まれるわけでもないのですよ?」
オネルヴァがやんわりと答えると、エルシーはきょとんと目をまんまるくしている。
「結婚したら、赤ちゃんは生まれるわけではないのですか?」
どうやら彼女はそう思っていたらしい。だから、すぐに弟妹ができると思っていたのだろう。
オネルヴァは言葉を選びながら、ゆっくりと口を開く。エルシーは真面目な顔でオネルヴァの話を聞いていたが、彼女の結論は「エルシーもお姉さまになれるように、お勉強がんばります」だった。
純粋なエルシーにこれ以上の現実を突きつけるのは気が引ける。
「そうですね」
にこやかに笑って誤魔化した。
そもそもオネルヴァはエルシーの母親として求められているが、イグナーツの妻としては求められていない。そんな彼との間に子が授かるとは思えないのだ。
イグナーツとは口づけをする関係になった。しかしそれも一種の治療行為であり、あのときのみの行為である。そういった愛情を確かめるための行為ではない。
エルシーには悪いが、彼女の弟妹を授かることはない。
そう思っただけで、胸がキリッと痛み目頭が熱くなった。
イグナーツはその日、いつもと同じように遅い時間に戻ってきた。
休暇が明けてから仕事だといって王城へ足を向ける日は、夕食を一緒にとらない。それは彼の帰宅時間が遅いためである。いつもエルシーが眠ってから帰ってくる。
毎日帰宅の遅い彼を、オネルヴァは心配していた。
彼は帰宅すると、執務室で食事をとりながら、書類やら手紙を確認している。だから彼に声をかけるのは気がひける。
帰宅したタイミングで「おかえりなさい」と言葉をかけて食事を運び、寝るときに「おやすみなさい」と言うだけである。
十日前のように交わした熱い口づけによる治療行為も、あれ以降していない。つまり、イグナーツが職場でうまく魔力の解放を行っているのだろう。求められないのに、オネルヴァから「治療します」と口にするものでもない。
昼間にエルシーから言われた言葉も重なり、胸の奥にくすぶるような火種が生まれていた。それが何を意味するのか、オネルヴァ自身もわからない。
トントントントン――。
挨拶をするため、彼の執務室の扉を叩いた。中から返事があるのをしばらく待つ。
いつもであれば、心の中で「五」まで数える間に「開いている」と声が聞こえてくる。だが今日はその声が聞こえてこない。
扉に手をかける。
「旦那様……?」
おそるおそる扉を開けると、ソファに身体を沈めている。その表情はどこか苦しそうにも見えた。
こんな彼を、オネルヴァはよく知っている。
「旦那様……大丈夫、ですか?」
適切な言葉が思い浮かばず、つい、そう尋ねていた。
「オネルヴァ、か……」
掠れた声でオネルヴァの名を口にした彼の手は震えており、宙をさ迷っていた。その手をがしっと両手で包み込む。ごつごつとした感触が、どこかなつかしくすら感じる。
最近のイグナーツが忙しそうにしていたのは知っていた。
「おかえりなさい」と言って食事を運び、しばらくした後、「おやすみなさい」と告げるだけ。
朝食は一緒にとってはくれるものの、どことなく落ち着きのない印象を受けた。エルシーも何か告げたそうであるが、そんなイグナーツの雰囲気を感じ取っているのだろう。義務的に手を動かすような朝食に、どこか寂しさを感じているようだった。
そんな二人の架け橋となっているのがオネルヴァという存在なのかもしれない。
「旦那様、もしかして例の魔力が?」
「すまない……」
イグナーツは魔力に侵されるたびに謝罪の言葉を口にする。
オネルヴァは彼の身体を挟み込むようにしてソファに膝をつく。足を広げたはしたない格好ではあるが、この状態の彼を抱きしめるのであればこうするのが一番いいだろうと判断した。
オネルヴァは彼の膝上に腰をおろし、そのままイグナーツを抱きしめる。
今まで一人で耐えていたのだろう。人の目があるときは何事もないかのようにぐっと堪え、弱みを見せないのだ。そしてこうやって誰もいないところで静かに耐え忍ぶ。
他人を頼るのが苦手な不器用な男であるが、それがオネルヴァにとっては可愛らしくも見えた。
苦悶に歪む彼を助けることができるのは自分だけ。
その気持ちが少しだけオネルヴァを大胆にさせる。
自ら、彼の厚い唇に顔を寄せる。その行為に驚き、イグナーツが少しだけ身を引いたのを感じた。だが、すぐに彼のほうから積極的に求めてきた。
「……んんっ……」
鼻から抜けるような甘い声が漏れ始める。
ぬめるような音が淫らに響き、互いの息遣いも次第に荒くなる。
「……はぁっ、んっ」
鼻から息をしろと言われ、それを実践していたとしても、あまりにもの激しさに苦しくなる。
「んンっ」
これ以上は無理、と思ったところで顔を背けてすぐに下を向く。
先ほどから足の間に何か硬いものが当たっているような気がして、それが気になっていた。
イグナーツは彼女の視線に気がついたようで「すまない」と謝罪の言葉を口にする。
「あの、具合はよくなりましたか? その……今日も魔力に侵されていたのですよね?」
「ん、あ、あぁ。そうだ……。だが、君のおかげで助かった」
彼の上から退けるために、オネルヴァが身体を動かすと、彼は苦しそうに顔をしかめた。
「やはり、まだ魔力が?」
「ち、違う。悪いが……そこから退いてもらえないだろうか」
そこというのは彼の膝上を指しているのだろう。オネルヴァ自身も、大きく足を開いている恥ずかしい姿をしている。
「あ、ごめんなさい」
慌てて身体を引いて、彼から降りた。
「あ、旦那様。お食事をお持ちしました」
何事もなかったかのように、彼女はワゴンを引き寄せた。