夫41歳、妻22歳、娘6歳(1)
いつ来てもこの場所は居心地が悪い。それは部屋の雰囲気が悪いのではなく、間違いなく目の前にいる人物が原因だろう。
深みのある茶色を基調としている部屋であり、落ち着いた雰囲気ではあるものの窓がないため、少々息苦しさを感じる。
しかし彼は、この場所を幾度となく訪れている。
それはイグナーツがゼセール王国軍の将軍と呼ばれる立場にあるからだ。彼は王国軍の北軍を指揮していることから、北の将軍と呼ばれるときもある。大陸の東側に位置するゼセール王国は広大な面積を誇るため、四方には王国軍を配置しているのだ。
落ち着かない様子を誤魔化すために、イグナーツは目の前のカップに手を伸ばした。
「イグナーツ・プレンバリよ」
カップ越しに名を呼んだ人物に視線を向ける。
イグナーツよりも三歳ほど年上の男は、朗らかな笑みを浮かべており、その年齢を感じさせない。金色に輝く髪にも艶があり、張りのある肌には皺ひとつない。
「結婚してくれ」
イグナーツは、飲み込もうとしていたお茶を、ぶふぉっと思いっきり噴き出した。
側に控えていた侍従がすぐさま駆け寄り、彼の粗相を無表情で片づける。
「なにも、私と結婚してほしいと言っているわけではないぞ?」
目の前の男――ゼセール王は、目を細くしてははっと笑っている。
イグナーツは侍従から受け取った手巾で鼻と口元を覆った。その二つから、何かが出た。
「悪いが、君に拒否権はない。これは国王からの命令だ。これに背けば、君を反逆罪として捕らえるからな」
まるで脅しのような言葉であるが、本当に脅しているのだろう。
「君が捕らえられたらどうなる? 君の娘……いくつになったのかな?」
イグナーツ一人の問題であれば、反逆罪と言われようがこの縁談を断り、国外逃亡をはかっていたかもしれない。いや、実際にそんなことをする気はないのだが、それだけ結婚をしたくないという意味である。
だが、娘のことまで持ち出されてしまったら、間違いなく国外逃亡などできるわけもなく、反論する余地もない。
「六歳になりました」
「かわいい盛りだね。言葉も覚え、字を書き始め、よく喋る。無垢な子は、本当に癒される」
うっとりとしている王は、今では思春期真っ只中の一番下の娘を想っているようだ。最近、蛆虫を見るような視線を投げかけられると言ってぼやいていたのは、いつだったろうか。
「娘となれば、これから大変になるだろう?」
目の前の王が言うと、妙に説得力があるから不思議である。
「娘のためにも母親は必要なのではないか?」
娘を出されてしまったら、イグナーツはぐうの音も出ない。もちろん、反論などできるわけがないし、する気もない。
娘はかわいい。目の中にいれても痛くないほど、かわいい。壁の影に隠れて彼女の様子を覗き見していたら、執事に咎められてしまったほど、かわいい。
「おい。顔がにやけているぞ?」
指摘され、イグナーツは頬をぺしゃりと叩き引き締めた。
「そういうわけだ。だから、結婚しろ。先のキシュアス王国との件、ご苦労だった。それの褒賞だと思ってくれればいい」
いらぬ褒賞である。
「念のため言うが、私とではないぞ?」
王はその冗談を気に入ったのだろうか。
「君の相手はキシュアス王国の元第二王女」
「もと?」
キシュアス王国は、数日前に王が代わったばかりだ。それにはイグナーツもかかわっている。
「そう、前王の娘だな。現王には息子しかいない」
「前王の関係者は、全員、処刑したか修道院に送ったのではないのか?」
王妃や王子妃などは、最も規律が厳しいと言われている国境にある修道院に送ったと報告を受けている。
「それに、前王には王子が二人と王女が一人。その王女も降嫁したはずでは?」
「さすがに知っていたか」
そのくらい常識の範疇である。
「だがな、前王にはもう一人娘がいたんだよ。それが、君の妻となる人物だ」
ゼセール王が目を細める。イグナーツも対抗して目を細くして、睨みつける。
「俺の妻云々はおいておいて。もう一人の娘とはなんなんだ?」
「まあ、キシュアスの前王には娘が二人いたということだ。だが、もう一人のほうは表舞台から消されていた」
「なぜ?」
「『無力』だからだな」
その言葉に、イグナーツは思わずゴクリと喉を鳴らしてしまった。
「あの国では『無力』は疎外の対象となっている。まして王族。存在しない者にしたかったのだろうな」
それができなかったのは『無力』なりに使い道があるとでも思っていたからだろう。
ゼセール王が水面下で手に入れた情報によると、言葉にしたくないような計画が立てられていたとのことだ。
「というわけでだ。結婚してくれ」
イグナーツも今の話で状況を理解した。キシュアス前王の娘でありながらも、処罰の対象とならなかったのは幽閉されていたのが原因だろう。
「彼女の肩書が重要であるなら、安心しなさい。彼女は現王の養女となったから、やはり王女のままだ」
肩書などどうでもいい。とにかくイグナーツは結婚したくないのだ。まして相手がキシュアス前王の娘となれば、なおのこと。
「この年にもなって、今さら結婚したいとは思わない。……断る」
「とは言わせないと言っただろう? これは王である私からの命令だ。それに相手が『無力』であれば、君にとって都合がいいのではないか?」
だから断りたいのだ。相手が『無力』でなければ受け入れていただろう。相手が『無力』だからこそ駄目なのだ。
「どうせ君のことだから、くだらないことで悩んでいるのはわかっている。世間体やらなんやらか? 言いたい奴には好きに言わせておけ」
そう言いながらも、王はイグナーツが好きに言うのを許していない。
イグナーツが何か言えば「却下」「断る」「不採用」「没」と否定の言葉を口にするのがゼセール王なのだ。
「そうだ。発想の転換をしよう」
王はパチンと指を鳴らしたつもりのようだが、かすった音しか出てこなかった。指もかさつく年代であるのを自覚してもらいたい。目の前の王だって四十も半ばに差し掛かろうとしている。
「先ほども言っただろう? 君の娘、エルシーにも母親は必要なのではないか? 君のような無骨な男が父親であればなおのこと」
イグナーツはひくっとこめかみを動かした。
「だからな。エルシーのために結婚してくれ」
「ぐぬぬっ……」
娘のエルシーには、やはり母親は必要なのだろうと思っていた。だが、それを埋めるかのように侍女たちがなにかと世話をしてくれるし、家庭教師も手配している。
イグナーツは父親として、彼女を立派な淑女に育てていると自負している面はあった。
だが、ときどきエルシーから「お母さまってどんな人?」と聞かれると、胸の奥がズキンと痛む。
『優しくて、エルシーのことを心から愛していた。君が大きくなった姿を見せてあげたいよ』
そう答えると、エルシーはイグナーツと同じような澄んだ茶色の瞳を、嬉しそうに綻ばせるのだ。
「いや。エルシーに母親はいる。もうこの世にはいないが、彼女の心の中にはいるんだ」
「もちろん、彼女を産んだ母親を否定する気はないよ。だがね、これから心も身体も成長するにあたり、身近に心許せる存在が必要なのではないかと、私は思っているのだが?」
王の視線はどこか遠くを見つめていた。何かの想いに耽っているのだろう。
「男と女は、身体も心も違う。エルシーが身体で悩み始めた時に、君はその助けになれるのか?」
「侍女がいる」
「それは、使用人だろう? もちろん、彼女たちの存在を否定する気はないが、やはり使用人と家族では、エルシーだって心構えが違うだろう?」
王の言葉が正論過ぎて、反論できない。いや、もともと反論など許されぬ話なのだ。
それに、エルシーに母親的存在がいたほうがいいのではないかと思っているのは、イグナーツも同じだった。