妻が気になる夫と娘が気になる妻(3)
オネルヴァの視線に観念したのか、イグナーツの乾いた唇がゆっくりと開き始めた。
「口づけをするときは、鼻で息をすればいい……」
驚いて、目を瞬いた。もしかしてそれをずっと伝えたかったのだろうか。
「息をしなければ、これ以上の深い口づけはできない……」
口づけとは、唇と唇を合わせるものではないのだろうか。深いというのであれば、もっとぎゅっと密着させることを指すのか。
「深い口づけ、ですか?」
よくわからず、オネルヴァはそう声に出していた。
「あ、あぁ……。できれば君と、それを試してみたいのだが……」
イグナーツは視線を逸らした。そうなるとオネルヴァまで急に恥ずかしくなってしまう。
「は、はい……」
声が掠れないように、必死になって返事をすると、彼の顔が動いた。
「い、いいのか?」
「は、はい……」
「いや、だが……。俺と君は夫婦でありながらも、形だけのものだ」
「ですが、家族です……。口づけ一つで旦那様が助かるのであれば……。今よりも深い口づけをすれば、旦那様の魔力も落ち着かれるのですよね?」
そうでなければ、彼も口づけしたいとは言わないだろう。だから、これはただの口づけではないのだ。人命救助のために必要な口づけである。
オネルヴァは何度も心の中で自分にそう言い聞かせる。
「そうだ……。この口づけは、俺の魔力の安定のために必要な行為だと。そう思ってもらえればいい……」
彼の大きな手がオネルヴァの頬を包み込んだ。両手でしっかりと、そしてどこか優しい彼の手によって包まれると、心臓が高鳴ってしまう。
「目を、閉じてもらえないか?」
「は、はい……」
深い口づけに興味のあったオネルヴァは、じっとイグナーツを見つめていた。しかし、それにはさすがの彼も恥ずかしいらしい。
オネルヴァは目を閉じた。すぐさま唇に熱が触れる。
だが、今回は触れるだけではない。彼の唇によって、食まれて舐められる。
その感触に驚き、喉の奥から声が漏れた。すぅっと熱が離れる。
「オネルヴァ。少し、唇を開いてもらえないか?」
目を閉じたまま頷いてみたものの、唇を開けて何をするかがまったくわからなかった。とりあえず言われた通りに、ぴったりと上と下をくっつけていた唇に、少しだけ隙間を作る。
少しだけの隙間から、肉厚のざらりとしたものが口腔内に入ってきた。これは、彼の舌である。驚きのあまり、オネルヴァは自身の舌を奥に引っ込めようとしたが、すぐに絡めとられてしまう。
粘膜と粘膜が触れ合っているだけなのに、ぞくりとした感覚が背筋を襲う。
ざらざらとしている彼の舌は、腹を空かせた獣のように荒々しい。
息をする暇もない。新鮮な空気を求めようとすれば、艶めかしい声が零れる。自身から発せられる声とは思えないほど、艶やかであり淫らな声だ。
これが彼の言っていた深い口づけなのだろう。少しずつ呼吸が苦しくなり、頭の中も霞がかかったようにぼんやりと蕩け始める。
他人と舐め合うだけの行為なのに、身体の芯から熱が生まれ始める。それは徐々に身体中へ広がっていき、官能を高める。
鼻で息をすればいいとは言われたが、それすらままならないほど激しく絡めてくる。
唾液を飲み干すことすらできず、口の端から赤子のようにたらりとそれが流れ出る。それすら、彼はぺろりと舐め上げた。
それが終わりの合図だった。
「……すまない……。がっつきすぎた。大丈夫か?」
激しく肩を上下させているオネルヴァは、呼吸が苦しくてまともに返事もできず、首を縦に振ってそれに応える。
「そうか……。水でも飲むか?」
先ほどまで、あれほど苦しそうにしていたイグナーツが、今ではケロっとした表情を浮かべている。オネルヴァと少しでも離れただけで、自我を失いそうになっていたはずなのに。
「旦那様。お体のほうは、大丈夫なのでしょうか? その……魔力は?」
「あぁ。オネルヴァのおかげで助かった。今ではだいぶ落ち着いている。だが、君のほうが苦しそうな表情をしている」
イグナーツは、「待っていなさい」と声をかけると、寝台から降りてグラスに水を注いだ。
驚いて彼を見上げたオネルヴァは、静かにグラスに手をかけた。
「飲めるか?」
「は、はい……。落ち着きましたので」
グラスはびっしりと汗をかいていた。これもイグナーツの魔術のおかげなのだろう。きっと、水を冷やす魔術だ。
グラスを傾けると、口の中が冷たくて澄んだ水で満たされた。ただの水であるのに、さっぱりとしていて美味しいと感じる。
彼女が水を飲み干したタイミングで、イグナーツは手を伸ばしてきた。グラスを預かるという意味だろう。オネルヴァも空になったグラスを彼の手に預けた。
それでもまだ、心臓はドクドクとうるさく動いている。
彼と交わした初めての深い口づけは凄かったとしか言いようがない。あんなものが存在することすら知らなかった。
今でも熾火となって、身体の奥で疼く熱を放っている。彼の寝台の上で、こうやって呆けて座っていることしかできない。
「大丈夫か? もしかして、俺の魔力に当てられたか?」
意味がわからず首を傾げると、ギシリと音を立ててイグナーツが寝台に腰をおろした。
身体を捻って、オネルヴァの顔を覗き込む。
「やはり、顔色がすぐれないようだ。すぐに休みなさい」
何を言葉にしたらいいかわからず、困ったオネルヴァは目を瞬いた。
「あ、はい……」
オネルヴァは彼の寝台から降りようとしたが、ふらりと大きく身体が傾いてしまった。すぐさまイグナーツが手を伸ばし抱きとめた。
「やはり、俺の魔力にやられたのでは? 君さえよければこの寝台を使いなさい」
「あ、はい……ですが、旦那様は……?」
彼の胸の中で顔をあげると、すぐ目の前に茶色の瞳がある。
「俺は……向こうで寝る」
彼が顔を向けた場所は、二人の寝室である。一度も使ったことのない部屋。
オネルヴァを寝台に残し、立ち去ろうとする彼の寝衣の裾を思わず掴んでしまった。
「旦那様……ご迷惑でなければ、ご一緒に……」
彼女自身も、なぜそう言葉にしてしまったのかはわからなかった。だが、離れてはならないような気がしたのだ。
「そう……そうです。だって、旦那様の魔力がまた溢れてきてしまっては困りますよね。ですから、一緒に休まれたほうがいいのではないでしょうか?」
ものすごく正論を口にした気がする。だが、イグナーツは動きかけた身体をピタリと静止させていた。
「旦那様?」
拒まれたらどうしようという思いもあった。
「嫌ではないか?」
ビシッと身体を固まらせたまま、彼は尋ねてきた。だから、オネルヴァは答える。
「はい、嫌ではありません」
深い口づけを交わした仲である。今さら、共寝をするくらいどうってことはない。
イグナーツはきっちり百八十度回転して、オネルヴァを見下ろしてきた。唇がひくひくと動き、何か言いたそうにしている。
「では、失礼する」
膝をつき、寝台へとあがってきた。二人分の重みが加わり、寝台が沈む。
「できるだけ、君には近づかないようにする。だから、安心して眠ってくれ……」
イグナーツは、オネルヴァに背を向けて寝台の隅っこで丸くなった。
*~*~苺の月十一日~*~*
『きのう おとうさまはおそくにかえってきました
エルシーが ねむってからかえってきたようです
おしごとが いそがしかったみたいです
あさのごはんをたべながら たくさんあくびをしていました
おしごとは たいへんです
おとうさまがいないと ときどき さびしくなります
でも おかあさまがいっしょにいてくれるので いまはへいきです
かぞくがもっとふえたら もっとさびしくないとおもいます
エルシーもはやく おねえさまになりたいと おかあさまにいったら
おかあさまはわらっていました』