妻が気になる夫と娘が気になる妻(2)
彼の体温を感じながら、オネルヴァはどうしたらイグナーツを侵している魔力を無効化できるかを考えた。
だが、先ほどはこうやって触れ合っただけ。となれば、今も同じようにするしかないだろう。
しっとりと汗ばんでいるイグナーツからは、雄々しい匂いが漂っている。どれだけの間、苦しんでいたのだろうか。こうなる前に、求めてくれればよかったのに。
自分たちは「家族」ではないのだろうか。
「旦那様、お願いですから。死ぬとかそういう不安になるようなことを言わないでください」
頭をすりすりと彼の身体にすりつけて、必死で訴える。
「オネルヴァ……」
彼の声にはっと顔をあげる。
「旦那様。大丈夫なのですか?」
先ほどまでの生気を失ったような視線はどこかに消え去っている。
「あ、ああ……なんとか、助かった……」
「よかった……よかったです」
オネルヴァは力強く抱きしめながら、はらはらと涙を流す。
「オネルヴァ……君には悪いとは思っている……」
何に対する謝罪なのかわからないが、オネルヴァは首を横に振った。
「何も、悪いことなんてされておりません。わたくしは、旦那様の家族です。家族が困っていたら、助けたいと思いませんか?」
そう言ったオネルヴァだが、胸はギリギリと挟み込まれるかのように痛んだ。
家族であっても、彼らはオネルヴァを助けてくれなかったのだ。その過去が頭の中を横切った。
だが今は、出会い方はどうであれ、オネルヴァとイグナーツは家族になった。それも、夫婦という特別な家族である。
「オネルヴァ、ありがとう」
オネルヴァの腕の中にいるイグナーツは、はっきりとした口調でそう言った。
「よかったです」
彼の声を聞いたら、また涙が溢れてきた。
「オネルヴァ、泣かないでくれ」
「だって……旦那様がいなくなってしまったらどうしようかと、不安だったのです。だから、これは安心したからです」
「君は嬉しくても泣くし、安心しても泣くのだな」
イグナーツの太くて力強い指が、オネルヴァの涙をぬぐった。
「すまなかった。心配をかけた」
「はい」
消え入るような声で返事をする。
「喉が渇いたな」
まるで何事もなかったかのように、彼は口にした。
オネルヴァは腕を緩めて、彼を解放する。
「今、お水をご用意いたしますね」
少し離れた場所にある丸いテーブルの上には、銀トレイの上に水差しとグラスが置かれている。
それを手にするために、イグナーツから離れ寝台から降りようとしたところ、彼はまた苦しそうにくぐもった声をあげる。
「旦那様?」
オネルヴァはすぐに彼に寄り添い、しっかりと手を握りしめる。
「すまない……」
また、先ほどと同じように目はとろんとし始め、顔から生気が失われていくようにも見えた。
だが、オネルヴァが手を握り始めると、彼の表情は次第に落ち着いていく。
「本当にすまない……。自分で思っていたよりも、症状は深刻だったようだ……」
イグナーツ自ら、空いていた片方の手を、オネルヴァの手の上に重ねた。
「こうして君に触れていないと、次から次へと魔力が溢れてくるらしい」
「つまり、旦那様はずっとわたくしに触れていなければならないのですか?」
「そういうことのようだ。今、落ち着いていられるのも、この手を通して君が俺の魔力を無効化しているからだろう」
「困りましたね」
そう口にしたオネルヴァは首を傾げたが、心から嫌がっているわけではない。ただ、本当に困ったと思っている。
「ずっとくっついたら、旦那様はお仕事にもいけませんしね。エルシーも一緒にくっつきたいと言うかもしれませんね」
まるで「今日のご予定は?」と尋ねるような穏やかな口調である。困っているけれど、嫌ではない。
イグナーツの喉元が、ゴクリと上下する。
「すまない、オネルヴァ……。俺を助けてもらってもいいだろうか」
オネルヴァはきょとんと眼をまんまるにしてから、目尻を和らげた。
「もちろんです、旦那様。先ほども言いましたが、わたくしたちは家族です。家族であれば、助け合うのも当たり前だと思うのです」
二人で手を握りしめ合いながら、視線を重ねる。観念したかのように、イグナーツが目を伏せた。
「口づけを……してもいいだろうか……」
躊躇うような口調であった。
オネルヴァもぱちぱちと目を瞬く。
「口づけ、ですか?」
夫婦となった二人であるが、夫婦のような触れ合いはない。触れ合いそのものがなかった。
手を繋ぐのも、エルシーを挟んでしかしたことがない。直接二人で触れ合ったことはない。二人の間には必ずエルシーがいた。
「す、すまない……」
掠れるような声で、イグナーツが言葉にする。
「いえ。わたくしたちは夫婦ですから。その……口づけをしてもいい間柄と言いますか、なんと言いますか。ですが、突然そのようなことを言われたら、驚くと言いますか……」
オネルヴァは混乱していた。なぜ、急にイグナーツが口づけをしたいと言い出したのかがまったくわからない。
オネルヴァに求められているのはエルシーの母親であって、彼の妻ではない。家族と口にしながらも、その家族もエルシーが中心に成り立っている。
「人工呼吸のようなものだと……人助けだと、思ってくれたらいい……」
イグナーツは、しっかりと握り合っている手を見つめている。オネルヴァと顔を合わせないのは恥ずかしいからなのだろう。
「わかりました。口づけをすれば、旦那様が助かると。そういうわけですね?」
人工呼吸のようなものであれば、人命救助である。目の前のイグナーツが魔力に侵されている状況から推測するに、きっとこの状況を和らげてくれるに違いない。
イグナーツが驚いて顔をあげた。その頬は真っ赤に染まっていた。けして、お酒を飲んで酔っ払っている顔ではない。
「い、いいのか……?」
「はい。それで旦那様が救われるのであれば。人助けのようなものなのですよね」
「そ、そうなのだが……」
オネルヴァを握りしめている手にも力が込められる。だから、オネルヴァも同じようにきゅっと強く握る。
「わたくしたちは、家族ですから……」
「それは、そうだが……」
イグナーツは、先ほどから躊躇いを見せている。自ら言葉を口にしたくせに、オネルヴァがそれを受け入れた途端、弱気になっている。
彼女は静かに目を閉じた。少しだけ唇を突き出してみる。
触れ合っている手がぴくっと反応した。彼はやんわりと手を解く。
「本当に……いいのか?」
彼女は目を瞑ったまま頷いた。
衣擦れの音がする。彼が、身体を起こしているのだろう。
イグナーツの指が、そっと頬に触れた。ドキリと胸が高鳴った。目を閉じている分、これからどのタイミングで何が起こるのかが全くわからない。かといって、今から目を開けて目の前に彼の顔があっても困る。結局、目を閉じたまま、唇に何かが触れるのを待っていた。
彼の吐息を近くで感じた。熱が顔に近づいてくる。
カサリと乾いた唇が触れた。がさがさして、ささくれ立っているような感触がある。
ただ唇と唇が触れるだけの口づけである。それでも、オネルヴァにとっては初めての経験で、それ以上何をどうしたらいいのかが全くわからなかった。
ただ、呼吸を止めているため、少し息苦しい。
我慢の限界がきて、おもわず顔を逸らす。それから、大きく息を吸った。
「ぷはっ……」
「……やはり、嫌だったのか?」
声に導かれるようにして彼の顔を見る。それは目尻に深く皺を刻み、どこか悲しそうにも見えた。
「い、いえ……。初めてのことでしたので、息が苦しくなって……」
その言葉で、今度は彼の眉間に皺が寄る。まるで不審な物でも見ているような、警戒されるような憐れまれるような、複雑な視線である。
「だ、旦那様?」
何か失礼なことをしてしまったのではという想いが、オネルヴァの中に生まれ始める。
「嫌ではなかったのか?」
そう尋ねるイグナーツは、捨てられた子犬のような目をしていた。短時間にこれだけ表情を変えてくる彼は珍しいし、それはまるで自分の感情に素直な幼子のようにも見える。
「はい……。嫌ではないのですが……。ただ、口を塞がれてしまったら、息ができなくて……苦しくなりました」
彼の茶色の目が覗き込んでくる。
「嫌ではなかった、と?」
それに返事をするのも恥ずかしく、オネルヴァは首を縦に振った。
「そうか……」
イグナーツは彼女を抱き寄せた。不意であったため、オネルヴァはすべてを彼に預けてしまう。
「きゃ……」
「あ、すまない」
「いえ、こちらこそ。突然のことで驚きました。これも、その……旦那様の魔力を無効化するために必要なことなのですよね?」
オネルヴァが彼を見上げると、その唇はひくひくと動いている。何か言いたそうにしているようにも見える。
「あの、どうかされましたか?」
そう尋ねれば、やはり唇はぴくっと動く。その様子をじっと見つめる。