妻が気になる夫と娘が気になる妻(1)
オネルヴァの目はぱちくりと冴えていた。先ほどのイグナーツの告白が、心を乱している。
部屋の魔石灯は、いつもヘニーが明るさを調整してくれるため、室内は真っ暗だった。それでも目は慣れてきて、天蓋がぼんやりと浮かび上がっていた。
腕に抱きかかえているくたっとしたうさぎのぬいぐるみに力を込める。
隣の部屋へと続く扉に視線だけを向けた。一度も足を踏み入れたことのない部屋だが、今は気になって仕方なかった。さらにその部屋の奥はイグナーツの部屋に続いている。
小さく息を漏らす。
やはり彼の言葉が信じられないという気持ちが強かった。それに彼の顔色が悪かったのも気になっている。
本人は心配ないと口にしていたが、オネルヴァとしては心に引っかかるものがあった。
それに、眠れぬ原因は他にある。
なぜ、魔術を用いてぬいぐるみを作るのが、魔力解放に繋がるのか。
それがわからず彼に尋ねてみたところ、きっかけはエルシーの誕生とのことだった。
『そういえば。君にはきちんと伝えていなかったな』
自嘲気味に笑った彼の表情が、今でもまざまざと思い出された。
『エルシーは俺の娘ではないんだ。五年前、彼女の両親――俺の弟夫婦が亡くなったから、俺が引き取った』
その言葉を聞いたときのオネルヴァは、きっと間抜けな顔をしていただろう。口をぽかんと開けていたかもしれない。
その事実に、心臓は大きく震えた。
『エルシーを授かったと聞かされた時に、どうせならこれから生まれる赤ん坊のために魔力を使ったらどうだと弟から言われてな。それを聞いていた弟の嫁さんが、面白がってぬいぐるみでも作ったらどうかと言ったんだ』
それが、イグナーツが魔力を用いてぬいぐるみを作るようになったきっかけだそうだ。
イグナーツの魔力解放の仕方は二種類あるらしい。激しくて強い魔術をどんと一気に使う方法と、ちまちまと繊細に使う方法の二種類である。
いつもは軍の施設で、魔術の指導も兼ねて威力のある魔術を使っていた。
だが、休暇中ということもあって、その方法が使えず繊細な魔力制御を行っていたらしい。それでも魔力解放は充分ではなかった。
今日は久しぶりの仕事であり、施設を使用するつもりであったが、仕事に忙殺されそれもできなかった。
次第に彼の魔力は体内に留まっていく。解放せねばという気持ちだけはあるものの、その時間がとれない。
だからオネルヴァが彼と出会ったときに、魔力に侵され苦しんでいたのだ。その状態に陥った場合は、やはり強い魔術を放ち魔力を解放する必要があるのだが、この屋敷のあの場所ではそれもできなかったとのことだった。
オネルヴァは、もう一度ぬいぐるみを抱きしめる腕に力を込めた。これは彼が初めて繊細な魔術を用いて作ったぬいぐるみだという。あまりにもくたくたしていて、義妹にも不評だったらしい。それでも、なぜかオネルヴァはこれに惹かれた。
きっと、彼の「初めて」を感じ取ったのだろう。
ぬいぐるみを抱きしめたまま寝返りを打つ。信じられないような話を聞いたばかりで、少しだけ興奮していた。
――カタッ。
隣の部屋から物音が聞こえたような気がした。一瞬、空耳かとも思ったが、一度気になってしまうともっと耳を澄ませてしまう。
――カタカタッ。
オネルヴァはうさぎのぬいぐるみを両腕に閉じ込めたまま、寝台からするりと降りた。少しだけひやっとした空気が肌に刺激を与える。
絨毯の上を引きずるようにしてそろりそろりと足を動かし、一度も触ったことのない扉に手をかけた。
この扉に鍵はかかっていない。
カチャリと音を立てて取っ手は動き、音もなく扉は開いた。
オネルヴァの部屋と同じように、室内は暗かった。誰かがいる気配はしない。
つまり、彼女に聞こえた物音は、この部屋から聞こえたものではないのだ。
少しだけ離れた先にある扉の隙間から、一筋の明かりが漏れ出していた。扉が開いているわけでもないのに、隙間を縫うようにして明かりがこちら側に侵入してきている。
あの扉はイグナーツの部屋へと続く扉。もう一度うさぎのぬいぐるみを力強く抱きしめ、扉へと近づく。すすっという自分の足音が異様に大きく聞こえた。
――カタ、カタッ。
「くっ……」
物音と共に、彼の苦しむような声も聞こえてきた。この声はあそこで聞いた声と同じ、苦悶の声である。
「旦那様?」
扉越しに声をかける。
カタカタと物音が反応した。
「うぅっ……くっ……」
オネルヴァは彼の部屋へと続く扉に手をかけた。こちらも鍵はかかっていない。お互いの部屋を自由に行き来できるようにと作られている部屋だからだ。
ひんやりとした取っ手を下げて、扉を開ける。
「旦那様……?!」
イグナーツは寝台の上で芋虫のように丸まっていた。大きな身体がこれほどまで小さくまとまるのかと感心してしまうほど。
オネルヴァはすぐにイグナーツの側へと駆け寄った。
「旦那様、旦那様」
必死になってイグナーツを呼ぶと、彼は震えている瞼を開けた。焦点の合わないような茶色の目が、オネルヴァを捕らえる。
「オネルヴァ、か?」
「はい、オネルヴァです。どうかされたのですか? 人を呼んできましょうか」
ハァハァハァ……と、苦しそうな息遣いを必死で整えようとしている。
「すまない。魔力が……」
たったそれだけの言葉であるが、彼に何が起きたのかをオネルヴァは瞬時に理解した。
腕に抱えていたぬいぐるみは、彼の頭の上のほうに置いた。くたっとしたまま、寄り掛かるかのようにして座っている。
イグナーツは、震える手をオネルヴァに向かって伸ばしてきた。
その手を両手で包み込んだオネルヴァは心配そうに彼の顔を覗き込む。
雨粒のような汗をびっちりと額に浮かべている。頬も上気しており、熱い息を苦しそうに吐いている。
この様子を見たら、誰だって心配するだろう。熱いからか寝衣の胸元ははだけており、今まで一度も見たことのない異性の逞しい身体にドキリとする。
「お水か何か、準備しましょうか?」
オネルヴァは彼の手を優しく握りしめたまま、尋ねた。
「いや……」
イグナーツは「それよりも」と言葉を続ける。
「もし、俺が死んだら、エルシーを頼んでもいいだろうか……」
ガツンと鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。なぜ、彼が今、そのようなことを口にするのか。
「旦那様、誰か人を呼びますか? お願いですから、そのような悲しいことをおっしゃらないでください」
イグナーツがいなくなったら――。
それを考えただけで胸が張り裂けそうになった。考えたくもない。
「オネルヴァ……」
熱く湿った吐息と共に吐き出された自身の名に、オネルヴァは胸がえぐられるような痛みを感じた。
彼は今、本当に命の危機を感じている。
では、なぜそのようになってしまったのか? 彼は「魔力が……」と言っていた。となれば、考えられる理由は一つ。
「旦那様。もしかして、魔力に侵されているのですか?」
それ以外考えられない。病気もしたことなく健康体であると何かの拍子で彼は言っていた。だが、年には敵わないなと自嘲気味に笑っていたのを覚えている。
イグナーツはオネルヴァの問いに答えない。答えられないのかもしれない。
オネルヴァは握りしめていた手を離して、寝台にあがった。そして、小さな身体で彼の大きな身体を上から抱きしめる。
「わたくしでは力になりませんか?」
自然と彼を助けたいと思っていた。イグナーツの元に嫁いでからというもの、オネルヴァの生活は今までと比べようのないくらい、幸せなものだった。
その幸せが何からできているのかと思えば、イグナーツとエルシーがいること。だから、彼が欠けてはこの幸せは壊れてしまうし、そうなってはエルシーも悲しむことだろう。
いや、悲しむのはエルシーだけではない。そうなることを考えたくないほど、オネルヴァの心は、イグナーツに向き始めている。
何よりも、この「家族」の姿を壊したくない。
オネルヴァは、横を向いている彼の身体に覆いかぶさった。
彼の顔を見ると、目の焦点は合っていない。唇もガクガクと震え、口の端からは涎が零れている。
これが魔力に侵されている症状なのだ。きっと、そうにちがいない。
オネルヴァは彼を抱きしめる腕に力を込める。
「旦那様。しっかりしてください。お願いですから、わたくしたちをおいていかないでください。旦那様、旦那様……」
抱きしめながら、彼の首元に顔を埋めた。