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秘密を知られた夫と秘密を知った妻(4)

◇◆◇◆ ◇◆◇◆


「奥様。旦那様がお帰りになりましたが、どうされますか? 執務室にいらっしゃるようです」

 どうやらイグナーツが帰ってきたようだ。

「ありがとう、ヘニー」

 イグナーツが帰ってきたら知らせるようにと、オネルヴァはヘニーに伝えていた。すっかりと寝支度を終えてしまったが、ナイトドレスの上にガウンを羽織れば、失礼にはあたらないだろう。

 部屋を出て、彼の執務室へと向かうと、食事のワゴンを押しているパトリックの姿を見つけた。

「パトリック。それは旦那様の食事ですか?」

「奥様も、旦那様にご用がありましたか?」

「いえ……。そうですね。少し、お話がしたくて」

 それは口実だ。話がしたいのではなく、なぜか彼に会いたいと思っていた。

「それは、なによりでございます」

「その食事を、わたくしが運んではいけませんか?」

 オネルヴァの言葉に、パトリックは少々戸惑いを見せていたが、最終的には「お願いします」とワゴンから離れていた。

「お預かりします。パトリックも、はやくお休みになられてくださいね」

「もったいなきお言葉を……。ありがとうございます」

 初老の執事は感激のあまりか、深く腰を折ると、ふらふらとしながらその場をあとにした。

 オネルヴァはワゴンを横におき、執務室の扉を叩いた。

 トントントントン――。

 だが、返事はない。そのまましばらく待ってみたが、それでも返事はない。

 もう一度、扉を叩く。

 扉の向こう側の部屋からは、物音一つ聞こえない。もしかして、先に浴室に行ってしまったのだろうか。それとも、一度私室に戻っているのだろうか。

 取っ手に手をかけると鍵は開いていた。食事もあることだし、ワゴンを押しながら室内に入る。

「失礼します」

 だが、やはり返事はない。

「旦那様……?」

 ぐるりと室内を見回すが、イグナーツの姿は見当たらない。執務席にはいない。その前にあるソファにもいない。

「お食事をお持ちしました」

 姿は見えないけれど、声は届いているかもしれない。そんな思いもあって無人の室内に声をかけてみた。

 だが、やはり返事はない。

 どうすべきか。オネルヴァはその場に立ち尽くす。せっかくの料理も冷めてしまうだろう。それに料理を望んだのはイグナーツなのだ。となれば、どこか近くにいるに違いない。少しだけ席を外しているのかもしれない。

 そう考えて、オネルヴァはすとんとソファに上に腰を落とした。

 しばらく待つことにした。そう決めたら、力が抜けた。ここの生活に慣れてきたと思っていたが、やはりイグナーツの前では緊張するようだ。

 ふぅと静かに息を吐く。部屋はしんと静まり返り、彼のいる気配はしない。

 だからこそ、変な物音に気がついたのだ。

「……くっ……。うぅ……」

 オネルヴァははっとして周囲を見回した。何か呻くような声が聞こえてきた。

「旦那様?」

 不安になり、イグナーツを呼んでみるが返事はない。だが、苦しそうな声は聞こえてくる。

 誰の声なのか。

「くっ……」

 どこから聞こえるのか。

 オネルヴァはもう一度大きく部屋を見回した。化粧漆喰の壁に金の刺繍が施されているこの部屋は、なんら珍しい部屋でもない。人が隠れるような場所もない。あるとしたら、大きな執務席の下あたりだろうか。

 さらに視線を動かすと、隣の部屋へと続く白い扉が目に入った。扉はきちんと閉められておらず、少しだけ開いていた。ぴっちりと閉められていたら、室内の壁と同化していただろう。

「旦那様?」

 立ち上がったオネルヴァは、扉にゆっくりと近づく。近づけば近づくほど、苦しそうな声が鮮明に聞こえてくる。

 彼女は右手を握りしめて胸元をおさえると、ゴクリと喉を鳴らした。あの扉の先を確認したいが、見てはいけないような気がする。そんな直感が働いた。

 それでも、誰かが扉の向こう側で苦しんでいるのであれば助けたほうがいいだろう。

 扉に手を添え、隣の部屋をそろりと覗き込む。

「旦那様……っ?!」

 オネルヴァは目を疑った。目を疑ったのは、この部屋の状況だ。

 ここはいったい、なんの部屋だろうか。

 だがそれよりも、部屋の真ん中には苦しそうに胸元を押さえながらうずくまっているイグナーツがいる。

「旦那様。大丈夫ですか?」

 彼女は思わず駆け出し、イグナーツに触れた。

 ひくっと彼の身体は震え、オネルヴァを見上げてきた。

「……?!」

 イグナーツの目は血走っている。肩を上下させながら、苦しそうに呼吸をしている。どこからどう見ても具合が悪そうだ。

「旦那様、どうされたのですか?」

 この部屋の異様な光景も気になっていたが、苦しんでいるイグナーツのほうがもっと気になる。

「オネルヴァ……か?」

 そう呼ぶ声も途切れ途切れで、額にも玉のような汗をびっしりと浮かべている。

「はい。具合が悪いのですか?」

 オネルヴァは彼の茶色の瞳を覗き込んだ。吸い込まれそうなほど深いその瞳は、じっとオネルヴァを見つめてくる。

「あっ……」

 いつの間にか彼の腕の中にいた。少しだけバランスを崩し、膝を突いた。だが、彼から力強く抱きしめられているせいか、なんとか転ばずにすんだ。

 顔を上げると、目の前にはイグナーツの顔がある。

「す、すまない……。嫌なら、拒んでくれ……」

 そう声を絞り出すことすら、彼にとっては辛そうに見えた。

「嫌ではありませんが、どうされたのですか?」

 この結婚は形だけの結婚であったはず。なによりもオネルヴァはイグナーツの妻ではなく、エルシーの母親役としてここにいるのだ。

 なのになぜ、このように抱きしめられる行為をされているのだろうか。

「旦那様?」

 イグナーツの身体ですっぽりと覆われてしまったオネルヴァの心臓は、バクバクと高鳴っていた。

 そもそもオネルヴァは人と触れ合ったことがない。やっとエルシーが与えてくれる温もりに慣れたところで、夫とはいえこのような大人の男性に抱き締められると、身体は強張ってしまう。

 エルシーとは違う体温に緊張するものの嫌悪感はなかった。こうすることで彼が苦しみから解放されるのであれば、このままこうしていてもいい。

 オネルヴァも、そろそろと彼の背に両腕を回す。きっと、このほうがいいはずだ。

「オネルヴァ……」

 熱い吐息と共に名を呼ばれ、ふるりと身体が震えた。

「すまない。もう少し、このままで……」

「はい……」

 顔を伏せた。きっとオネルヴァの頬は赤く染められているだろう。このような顔を彼に曝け出すのが恥ずかしい。

 しばらくの間そうしていたが、抱きしめられた腕の力が弱くなっていく。

「すまなかった。助かった……」

 それでもオネルヴァはまだ顔をあげることができなかった。ただ静かに「はい」と返事をする。

 イグナーツの熱からは解放された。だが、彼も気まずいのか、オネルヴァのほうを見ようとはしない。

 オネルヴァは少しだけ頬の熱が冷めたところで、顔をあげる。

「旦那様……」

 じっと彼を見上げると、耳の下まで赤くなっている。

「あの……このお部屋について、お聞きしてもよろしいでしょうか」

 オネルヴァが気になっていたのは、この室内だった。至る所にうさぎのぬいぐるみが並べられている。しかもぬいぐるみに見覚えはあった。

「あ、あぁ……」

 イグナーツの歯切れが悪い。彼の顔も赤くなったままである。

「こちらのぬいぐるみは、エルシーの部屋にあったものと同じぬいぐるみですね」

「そ、そうだな……」

 イグナーツは、まだオネルヴァと視線を合わせようとはしない。

「しかも、こんなにたくさん」

 オネルヴァが「たくさん」と口にしてしまったが、ざっと見積もってもうさぎのぬいぐるみは二十個ほど並んでいる。

 もしかして、エルシーが二十歳になるまでの分のぬいぐるみが並んでいるのだろうか。エルシーは誕生日のたびにこのぬいぐるみをプレゼントしてもらっていると言っていたからだ。

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