秘密を知られた夫と秘密を知った妻(3)
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軍事施設は王城敷地内にある。
将軍であるイグナーツの執務室は、司令部と呼ばれる建物内にあった。訓練場と呼ばれる中庭と小さな建物を挟んだ向かい側にある建物は本部と呼ばれており、下位の階級の者たちが常駐している。
どちらも白亜の外壁の王城とは異なり、のっそりと重みのある焦げ茶の角ばった建物だ。
イグナーツ率いる北軍は、王都に常駐している者と、北の関所付近に常駐している者と二つに分けられる。北の国境を見張り、入国手続きなどを行っているのも北軍の役割であるからだ。そのため、イグナーツは王都と国境を行ったりきたりすることが多い。
休暇中もちょくちょくと王城に足を運んでいたイグナーツであるが、軍の司令部に来たのはキシュアスから戻ってきた日以降であった。
懐かしい感じのする執務席にゆったりと腰を落ち着ける。壁を背にして黒紅のでっぷりとした机が置いてあるのは、外から背後を狙われないようにするためだ。
外光を取り入れる小さな窓は、座って左側の高い位置に配置されている。右利きのイグナーツにとっては、手の影が邪魔にならずに文字が書けるから、都合がいい。
「俺が不在の間、ご苦労だったな」
イグナーツがそう声をかけた相手は、柔和な笑みを浮かべているミラーンである。オネルヴァの迎えを彼に頼んだのも、自身が留守の間に北軍を任せたのも、イグナーツがすべてにおいて信頼を寄せている人物だからだ。
「キシュアスから手紙が届いております。先に、私のほうで内容を確認いたしましたが、急ぎの案件ではないと判断したものです」
「ああ、助かる」
そうは言ってみたものの、目の前の書類の束にはげんなりとしていた。期日に余裕のある案件がこんもりと置かれている。
「閣下。今日はこちらの確認だけで終わりそうですね」
確信犯であるかのように、ミラーンはハハッと笑った。
司令部の会議に顔を出せば、東軍、西軍、南軍の幹部たちは口元をニヤニヤと緩めているし、とにかく居心地の悪い場所でもあった。
会議が終われば、また執務室で山のような書類を確認する。
イグナーツとしては、時間を見つけて訓練場の様子を見に行きたかった。だが、目の前の書類を目にすれば、それは無理であろうという現実をつきつけられ、鬱々とする。
将軍という立場は、身体を動かすよりも頭を使う仕事が主だ。軍の一つを束ね、まとめあげるのだから仕方ないともいえよう。
復帰初日は、ほとんどが書類仕事で終わってしまった。会議以外は、ずっと執務席に座りっぱなしだ。
イグナーツに不満がたまっているのは、ミラーンも気がついたらしい。たまに何か言いたそうに口を開きかけるが、そこから言葉が出てくることはなかった。イグナーツが書類仕事をためこんでいたというのであれば、その後、その書類はミラーンの処理を必要とするからだ。つまり、ミラーンもイグナーツ同様に忙しい。
気がつけば、太陽はだいぶ西に傾いていた。
室内は薄暗くなり始め、魔石灯がぽつぽつと灯り始める。
「お前は、先に帰ってもいいぞ」
「私も帰りたいところではあるのですが、そのような状態の閣下を一人にするのも気が引けるといいますか。心配といいますか……」
「ん? どうかしたのか?」
「どうかしたのか、ではありませんよ。自覚がないとは恐ろしい」
ミラーンはこれ見よがしに、大きくため息をついた。
「閣下の魔力が不安定です。その状態が長く続けば、魔力に飲まれますよ? 適度に解放してください」
ミラーンはイグナーツの魔力の状態を知っている。他の誰よりも強い魔力を持ち、場合によっては魔力によって侵されてしまうその状況を知っているし、その状態を目の当たりにしたこともある。
「ああ。そうだな。本当は、あいつらの様子を見るためにも訓練場へ行こうと思っていたんだ」
行きたかったけれど行けなかった。訓練場は、夜間は閉鎖する。
「休暇の間はどうされていたのですか? あぁ、休暇中だから、気持ち的にゆとりがあったのですね?」
魔力が体内に留まるのは、外的要因も原因の一つとも言われている。とにかく、イグナーツのように魔力の強い者は、定期的に外に魔力を出さなければならない。
「なにも訓練場で強い魔術を使うだけが魔力の解放方法ではないからな。休暇中もそれなりに解放はしていた。今日もその方法を使うから、大丈夫だ」
イグナーツの魔力の解放の仕方は二つあって、休暇中は屋敷でも行える別の方法をとっていた。
やれやれ、とでも言いたいかのようにミラーンは首を横に振っている。
「それなりのレベルを超えていると思いますけどね。まぁ、周囲に迷惑をかけないようにお願いします」
そこでミラーンは席を立つ。
「閣下が大丈夫であると言うなら、私はその言葉を信じます。では、お言葉に甘えて、私は先に帰らせていただきます」
イグナーツが不在の間も一人で駆け回っていた彼を、遅くまで引き止めるのには気が引けた。
ミラーンが頭を下げて部屋を出て行った。
一人残されたイグナーツは、目頭を押さえた。目の奥が痛み、頭もどこかズキズキとする。
これはよくない兆候だ。ミラーンから指摘されたように、体内で魔力が滞り始めている。
イグナーツは、軍司令部から別邸までは徒歩で通っている。馬車で移動となれば、大きな通りに出る必要があり、逆に遠回りになってしまう。
ミラーンにはああ言ったイグナーツではあるが、この状況は大丈夫ではなかった。とにかく魔力を解放せねばならない。
それでももう少し、あと少しと、帰る時間は次第に遅くなっていく。
なんとかキリのよいところまで仕事を終えたイグナーツは、やっと帰り支度を始める。
帰路につくと、太陽などどこかにいってしまったかのように空は真っ暗で、道路には魔石灯が灯り、ぼんやりとした明るさを保っていた。
この魔石灯の普及によって、夜の街を楽しむ者も増えた。
イグナーツも若かりし頃は、仕事帰りに同僚たちと羽目を外したものだ。だがエルシーがきてからは、ぱたりとやめた。今でもまれに誘われることはあるが、エルシーを理由にして断っている。
それが、弟夫婦に対する償いのようにも感じていた。
「くっ……」
胸を押さえる。ドドドドと音を立てるような血流を感じた。
今日は休み明けということもあり、また形式上の結婚直後でもあったため、魔力解放をすっかりと忘れてしまった。いや、それだけ慌ただしかったのだ。
魔力解放のために軍に入隊したはずなのに、将軍と呼ばれるようになってからは本末転倒となっている感はある。むしろ今までは、こんなに不安定になったことなどない。
彼女と出会ってからがおかしい。
頭では彼女を拒もうとしているのに、イグナーツの魔力は彼女を求めている。思考と本能の差異に、ギリリと唇を噛みしめた。
本来であればイグナーツの立場を考えれば、こうしてこのような時間に一人で外を出歩くのは褒められたものではない。だが護衛をつけたほうが不便である。
ようするに、イグナーツは誰よりも機転が利き、誰よりも強い魔力を備えている。自分の身は自分で守れる。その結果なのだ。
イグナーツが屋敷に戻ると、いつものようにパトリックが出迎えてくれた。しかし、屋敷の中はシンと静まり返っている。エルシーの寝る時間なのだから仕方ないだろう。
「エルシーは?」
「おやすみになられています」
そのような答えが返ってくるのもわかっていたのに、聞いていた。
「オネルヴァは?」
自然とそう尋ねていた。娘を確認して、妻を確認しないのはおかしいだろうと、勝手に言い訳を考えている。
「自室で休まれているとは思いますが。何か、ご用が?」
「いや。それよりも食事を頼む。執務室に運んでくれ」
イグナーツが軍服の襟元をゆるめると、パトリックは恭しく頭を下げた。
イグナーツは限界だった。すでに身体は魔力に侵され始めている。食事より先に魔力を解放せねばならない。
執務室に入り、奥へと続く扉を開けた。