秘密を知られた夫と秘密を知った妻(2)
◇◆◇◆ ◇◆◇◆
着替えを終えたオネルヴァがエントランスに向かうと、そこには同じように着替えを済ませたエルシーが待っていた。
「お母さま」
オネルヴァの姿を見つけた彼女が、ひしっと抱きついてくる。
「あら。エルシーは甘えん坊さんになってしまったのですね」
「だって、来てくれなかったらどうしようと思っていたのです」
「まぁ。エルシーとの約束ですし、誘ったのはわたくしですから。約束はきちんと守りますよ」
オネルヴァがそう言っても、離れがたいのか彼女はドレスの裾にしがみついたままだ。
「エルシー。それでは歩けませんよ。さあ、手を繋ぎましょう」
手を差し出すと、エルシーがしっかりと握りしめてきた。
その様子を見ていたリサとヘニーも、ほっと胸をなでおろしている。
オネルヴァはヘニーたちに目配せをして、外へ出る。
この時間に外に出るのは、こちらにやってきてからは初めてであった。
澄んだ空気が、肌に触れる。それでも朝日は眩しく、目を細くする。日傘を差し、庭園を歩く。
今朝は少し冷え込んだようだ。朝露に濡れる草木が、太陽の光を反射してつやつやと輝いていた。
「お母さま、こちらの花が咲いています」
「この花は、朝方に咲く花なのです。太陽が高くなると、なぜか花を閉じてしまいます」
そういった知識も、あの離宮に閉じ込められていたときに読んだ本によるものだ。
「恥ずかしがり屋さんなんですね」
エルシーの言葉に思わず笑みをこぼす。
ここにきて十日程経った。これほどまでよくしてもらって、恐縮してしまう。今までとの生活の差が激しいからだ。
「お母さま、こちらの花も咲いています」
「この花は乾燥させて、匂い袋に利用されていますよ」
「匂い袋は、エルシーも作れますか?」
茶色の目を大きく見開き、オネルヴァを見上げてくる。
「そうですね。一緒に作ってみましょうか?」
「はい」
元気よく頷くエルシーが眩しく見えた。彼女の母親という役を与えられたオネルヴァだが、実際のところ、母親というものがよくわかっていない。
なによりもオネルヴァ自身が、母親から何かをされた記憶がないからだ。
気がついたらあの離宮にいた。身の世話をしてくれたのは乳母。だがその乳母も、オネルヴァが十歳を過ぎた頃に、忽然と姿を消した。
それ以降、オネルヴァは自身のことは自身で行うようになる。必要なものは定期的に運ばれてきたが、掃除や洗濯はもちろんオネルヴァが行っていた。
そして、礼儀作法を身につけるための授業を定期的に受ける。
それがオネルヴァの生活だった。
それでも今は、右手に小さな温もりがある。オネルヴァを「お母さま、お母さま」と慕ってくれるエルシーだ。
彼女の母親役として、合格だろうか。
それをイグナーツに聞いてみたいような気がした。
「そろそろ朝食の時間になりますね。戻りましょうか」
「はい」
オネルヴァは右手の温もりをしっかりと握りしめ、屋敷に向かって歩き出した。
身支度を整えて食堂に向かうと、イグナーツがすでにそこに座っていた。
「エルシー、散歩はどうだった?」
「お母さまと一緒に、匂い袋を作る約束をしました」
「そうか。それはよかったな」
「今度はお父さまも一緒にお散歩しましょう」
パトリックが椅子を引いたところで、エルシーはちょこんと座った。
「オネルヴァ」
「は、はい……」
イグナーツの低い声で名を呼ばれるのは、嫌いではない。
「俺の休暇も今日で終わる。明日からは、俺が留守の間、ここを頼む。もちろん、エルシーのことも」
「はい」
彼のことは嫌いではないが、緊張はする。今も、トクトクと心臓がうるさい。
食事が運ばれてきたため、会話は途切れた。
食事の時間は、エルシーに食事のマナーを教える時間でもある。エルシーの所作も、落ち着いてきたようだ。
たまに彼女の手元に視線を向けるが、すぐにエルシーに気づかれてしまう。そうすると彼女は、にかっと笑うのだ。そのときに別なところから視線を感じ、その視線の主を探るとイグナーツでだった。
彼は何も言わないが、こうやってときどきオネルヴァとエルシーをじっと見つめてくる。
エルシーと外で散歩をしているときもそうだ。屋敷の中からじっと見つめている。それだけエルシーのことを気にかけているのだろう。もしくは、オネルヴァを信用していないのか。
「オネルヴァ」
「はい」
「新婚旅行にも連れて行けずに、悪かったな」
突然、何を思って彼がそう言ったのか、オネルヴァには理解できなかった。
「お母さま」
いつも不穏な空気を和らげるのは、エルシーの役目だ。
「お母さまはお父さまと結婚式がしたいですか? エルシーはしたほうがいいと思うのです。お母さまがドレスを着たところを、エルシーは見たいのです」
「え?」
あまりにもの純真無垢な質問に、オネルヴァは答えるのを躊躇ってしまった。
「お父さまは若くないからって、結婚式をしたくないそうです」
エルシーの言葉がさも事実であるかのように、イグナーツの顔が徐々に赤くなっていく。
「エルシー。それは俺とオネルヴァの問題だ。子どもは黙っていなさい」
その言葉に、控えていたパトリックが反応した。だが、何かを言い返すわけではない。ただ冷たい視線でじっとりとイグナーツを見ている。
「政略結婚とはいえ、結婚は結婚だからな。どこかでけじめをつけるべきだと思っただけだ」
それが新婚旅行に繋がったのだろうか。
「はい。旦那様のそのお気持ちだけで充分でございます」
オネルヴァのその言葉も社交辞令ではない。そうやって思ってくれるだけで、胸の奥が熱くなる。
「パトリック。俺がいない間、オネルヴァにはこの屋敷のことをいろいろと教えてやってくれ。女主人として、軍人の妻として何をすべきか」
パトリックは黙って頭を下げる。
本来であればもう少し早い時期からそういった内容を引き継ぐべきだったのだろう。今までのんびりとした時間を与えてもらっていたことに感謝をしつつも、イグナーツの考えがよくわからなかった。
エルシーが勉強の時間は、オネルヴァは刺繍をして過ごす。イグナーツは執務室で仕事をこなしている。パトリックがそちらにつきっきりであるため、オネルヴァはヘニーから刺繍を勧められたのだ。
こういった細かい作業も嫌いではない。黙々と手を動かしながら、今後のことを考える。
女主人として求められるもの。まずは後継者を産むこと。だが、イグナーツにはすでにエルシーという娘がいる。本来であれば男子のほうが望ましいのかもしれないが、婿養子を迎えればいいので、後継者について大きな問題はないだろう。
となれば、あとはイグナーツが不在の間、この屋敷を取りまとめることを必要とされているのだろうか。
今までのんびりとさせてもらったのも、慣れない場所で暮らすオネルヴァを想ってのことだとヘニーが言っていた。
この屋敷の女主人であること。
エルシーの母親であること。
これがオネルヴァに求められるもの。
扉を叩かれ、動かしていた手を留める。
「エルシーお嬢様がお呼びなのですが」
ヘニーが遠慮がちに声をかけてきた。
「では、サロンに向かいます。エルシーにもそう伝えてください」
エルシーの勉強の時間が終わったのだ。勉強を終えた彼女はへろへろに疲れ切って、甘いお菓子を欲しがる。それに付き合うのがオネルヴァの役目でもあるのだが。
だが今日は、イグナーツにも声をかけてみようと思った。そのほうが、エルシーも喜ぶだろう。
刺繍道具をしまい、ヘニーに言付けると、イグナーツの執務室へと向かった。
*~*~苺の月九日~*~*
『いつも うさちゃんといっしょにねています
きのうは おとうさまと おかあさまとねました
おかあさまのてはやわらかくて いいにおいがします
おとうさまのては ごつごつしていて かたいです
おとうさまは あしたからおしごとです
でも おかあさまがいるから さびしくありません
あかちゃんがいたら もっとさびしくないです
エルシーは はやくおねえさまになりたいです』