妻子が可愛い夫と夫がよくわからない妻(4)
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オネルヴァはもう少しイグナーツと話をすべきだろうとは思っていた。
この屋敷に迎え入れられたが、ここまで待遇がよいと、変に疑ってしまう。そうやってなんでもかんでも疑うのはよくないとわかっているのだが、まだ、どことなく他人が信じられない。
むしろ、イグナーツという男性がよくわからない。
だけどエルシーは別だった。駆け引きとは無縁の無垢な子どもだ。彼女の言葉で心が揺れ動き、感情の起伏すら激しくなる。
思い出すと、頬が熱を帯びた。
ここに来たその日のうちに、イグナーツとエルシーに涙を見せてしまった。彼らはきっと驚いたことだろう。
オネルヴァは、ケーキとお茶を乗せたワゴンを手にしていた。
扉を叩く。
「どうぞ」
低くゆったりとした声が、扉の向こう側から聞こえてきた。この声は、オネルヴァの心を落ち着かせてくれるから不思議だった。
「オネルヴァです、失礼します」
オネルヴァが部屋を訪れたことに、彼は驚いた様子を見せた。
「どうかしたのか?」
鋭い眼差しで、じっと見つめてくる。
「お茶をお持ちしました。少し、休まれてはいかがですか?」
「ああ、そうだな」
落ち着いた動作でイグナーツは立ち上がる。ただそれだけなのに、オネルヴァの胸はチクリとした。
「もしかして、それが例のケーキか?」
ワゴンの上にあるケーキに気がついたようだ。
「はい。エルシーが食べたいと言いまして。それで、作りました。旦那様も食べてみたいとおっしゃっていたので、お持ちしたのですが」
「ちょうど小腹が空いたと思っていたところだ」
彼が笑みを浮かべると、目尻に皺が寄る。それですらオネルヴァの気持ちは揺さぶられる。
「あの……」
オネルヴァとしては、かなり勇気を出して声をかけた。
「わたくしもご一緒してよろしいでしょうか。旦那様と少しゆっくりとお話をしたいと思っておりましたので」
「そうしてもらえるとありがたい。美味しい物も一人で頂いては味気ないだろう?」
彼はソファに座りながらそう言った。
オネルヴァも微かに口元をゆるめ、二人分のお茶をいれて彼の向かい側に座った。
その様子を見ていたイグナーツも満足そうに頷く。
「ところで、エルシーは?」
「はい。おやつの時間を終えたので、今は勉強の時間です。エルシーは、覚えが早いですね。基本の文字はほとんど書けるようになったそうです」
「そうか」
「エルシーから、手紙も預かってきました」
オネルヴァはすすっとテーブルの上にエルシーからの手紙を置いた。
イグナーツは、すぐにそれを手にする様子はないが、顔はにやけている。それすら無意識なのだろう。
「あの……旦那様」
オネルヴァが声をかけると、にやけていた口元が引き締まる。
「そういえば、話があると言っていたな」
カップに伸びる彼の指が、気になってしまう。それを見ていることを悟られないように、オネルヴァは俯き「はい」と小声で答える。
「別に、君をとって食べようとしているわけではない。俺が食べるのは、このケーキだ」
オネルヴァが怯えているように見えたのだろう。さほど面白くもない冗談を言う彼に、オネルヴァは苦笑を浮かべて顔をあげた。
「あ、はい。あの……。わたくし、魔力のない『無力』の人間なのです……」
「ああ、知っている」
彼女にとっては一世一代の告白であったつもりなのに、イグナーツは軽く答えてきた。
「ご存知だったのですか?」
「ああ」
彼はさほど重要なことではないとでも言うかのように、ケーキをぱくりと口の中に入れた。
「これは、ほのかな甘みがくせになりそうだな」
そして真っ白な陶磁のカップに手を伸ばす。
オネルヴァはその一連の仕草に目を奪われてしまった。
「どうかしたのか?」
彼女の視線が気になったのだろう。
「どうもしないのですが……。わたくしのような人間がここにいて、これほどまでよくしてもらって、本当にいいのだろうかと不安になります」
「なるほど。君を不安にさせてしまったのであれば、こちらの落ち度だな」
「そんな、落ち度だなんて。滅相もございません」
カチャリと、彼がカップを置いた。腕を組んで、何かを考え込むかのような態度を見せる。
オネルヴァは不安気に彼を見つめていた。
イグナーツは軽く息を吐く。
「君がそんなに不安になるのであれば、こちらも本音を口にしよう」
ぴくっとオネルヴァの身体が震えた。
「君が『無力』でありながら君を迎えたのはエルシーのためだ」
「エルシーのため、ですか?」
ああ、と彼は大きく頷く。
「俺に妻は必要ない。だが、エルシーに母親は必要だ。君に求めるのは、エルシーの母親役。母親としての役割を果たしてくれれば、俺は何も言わない。例え君が『無力』であったとしても」
オネルヴァは、膝の上においていた両手で、思わずドレスをぎゅっと握りしめた。
「それが、わたくしがここに存在する理由ですか?」
「そうだ。幸いなことに、エルシーも君になついている。それに、君がここに来てから、エルシーも明るくなったし、勉強にも前向きに取り組んでいる」
エルシーはオネルヴァのことを「お母さま、お母さま」と慕ってくれている。
「はい」
そうやって理由を与えられたほうが、『無力』であっても、気兼ねなくここにいられる。
「ありがとうございます」
オネルヴァの言葉にイグナーツは何も返さない。ただ、黙々とケーキを食べていた。
オネルヴァも自ら取り分けたケーキを一口食べた。彼女が取り分けたケーキは、イグナーツの半分にも満たない量だった。
「オネルヴァ」
「は、はい」
突然名を呼ばれ、身を強張らせる。
「前にも言ったが。君は食が細すぎる。エルシーよりも食べていないだろう?」
「エルシーは育ち盛りですから」
「それでも、君だって立派な成人した大人の女性だ。俺が知っている女性よりも、明らかに食べる量は少ない。ヘニーからも、君の食事量を心配する声があがってきている」
「申し訳、ありません……」
「いや、謝罪することではない。君が向こうでどのような暮らしをしていたかはわからないが……。ここではきちっと食べて、エルシーの見本になってもらうような女性でいてもらいたい。そのような女性が貧相であっては困るからな」
まるで今のオネルヴァが貧相に見えるかのような発言である。驚いて、目を真ん丸に見開いた。
「いや、そういう意味ではなく……。まあ、例えだ、例え」
イグナーツが慌てているため、オネルヴァはくすりと微笑んだ。
「ありがとうございます」
慌てる彼が、なぜか可愛らしいと思えてしまった。
二人は黙々とケーキを食べた。
オネルヴァが一国の王女であったにもかかわらず、こうやって料理ができるのも、あそこでの幽閉生活が長かったせいだ。勉強する時間だけはたくさんあった。
「旦那様。エルシーが手紙を読んで、すぐにお返事が欲しいと言っておりました」
二人だけの静かなティータイムを終えようとしたときに、オネルヴァはいつまでたっても手紙を読まないイグナーツに向かってそう言った。
「すぐに? 何か、大事なことが書かれているのか?」
あとでこっそりと読もうとしていたにちがいない。
エルシーからの手紙を手にしたイグナーツは立ち上がり、執務席の引き出しからペーパーナイフを取り出すと、丁寧に閉じられていた封筒をピリピリと開ける。
中から出てきたのは便箋一枚。それでも幼いエルシーが書いたと考えれば、立派なものだ。
手紙に目を走らせているイグナーツの眉間に、次第に深く皺が刻まれていく。
「どうか、されましたか?」
ドレスを握りしめながら、オネルヴァは尋ねた。
「いや……。エルシーが人参を食べられるようになったら、なんでも言うことをきくと言っていたからな。その件だ」
「夜、一緒に寝たいと、エルシーは言っておりましたね」
「ああ……。それはいつだ、と書かれている」
「まぁ」
エルシーの手紙の愛らしさに、オネルヴァは目尻を下げた。だが、イグナーツは困惑しているようにも見える。
「早いほうがよいかと思います。まして、約束事ですから」
オネルヴァが声をかけると、イグナーツが手紙から顔をあげた。
「そうか。そうだな。今夜……か……」
ぽろっと彼がこぼした言葉を、オネルヴァは拾い取った。
「そのようにエルシーにお伝えしてもよろしいですか?」
「いや、あ。そうだな。だが、どこで寝る? 三人でとなれば、それなりに広い寝台が必要だろう?」
だが一人は子どもだ。大人二人眠れる場所であれば、充分でもある。
「でしたら、あの寝室ですか?」
オネルヴァが小首を傾げて尋ねると、イグナーツは首を横に振る。
「駄目だ。あの部屋は、まだ使っていない。使っていないのをエルシーに知られたら、俺たちが不仲であると不安になるだろう」
「でしたら、エルシーのお部屋がいいですね。エルシーの寝台でも、充分に広いですから」
オネルヴァが言った通り、エルシーが使っている寝台も大人二人が眠れるような広さの寝台である。そこにエルシーが一人で眠っているのだから、寂しくも感じるのだろう。
「そうだな。そうするか……」
渋々と口にしたような彼であるが、その口元は盛大ににやけていた。