ファイル10 太田莉奈:前編
先程とは違い、部屋全体が明るく見える。ソファーに座った心地よさも似て非なるものだった。温かいほうじ茶が運ばれ、どうぞと畠中先生がテーブルに置いた。
柴田先生が、向かいに座り、ご気分はどうですか?と笑顔で尋ねた。
かなり良くなったと、伝えると、「本当によかったです」と頷いた。
「今だからお伝えしますが、かなり危険な状態でした。命を奪おうとする因縁霊でしたので。」
実は先日、個別相談で会った時からハラハラしていたのだと明かしてくれた。因縁霊の中でも滅多に見ない、かなり悪質だったと。
「セラピー前にお邪魔があったと思いますが、大抵の場合あそこまで酷いことは起こらないんです。少しやる気が出ない、怒りっぽい、怠い。その程度なんです。」
啓介さんが、補足するかのように話し、
「今日来られた時、本当に安心しました。祖母の言うように、大変お守りが強いですね。」
「そうなんですか…意識したことはなかったんですが。」
最近の出来事を思い出すと、危ないときには、必ず救いの手が現れていた。
母に、父。そして先崎君も。
「音楽で大変活躍されてきたと思いますが、因縁霊により途中で道を断たれ、自分を苦しめる相手とご縁を結ばされ、心身ともに蝕まれてきたのでしょう。「消えろ」とクラスメイトが言う夢は、あの因縁霊が見せていたのでしょうね。」
柴田先生は、湯飲みを持ち上げ、一口ほうじ茶を飲んだ。
しばらく沈黙した後、また柴田先生が話し出した。
「田島さん、これから御守護の神様としっかり繋がり、対話ができるようになります。今からその方法を伝えますので、しっかり覚えてくださいね。おそらく、田島さんほどの力がある方でしたら、目を閉じるだけではっきりとお姿が見られるかもしれません。」
その後、言われたように、ゆっくり目を閉じ、何度か深い呼吸を繰り返した。
すると全身を黄金の衣で纏った、女神が現れた。金の雲に乗り、右手に光り輝く丸い宝珠を持っている。
「あぁ」感嘆のため息を漏らすと、その女神様が微笑んだように見えた。
「今、しっかりと繋がれましたね。おめでとうございます。」
パチパチパチパチと拍手が聞こえ、目を開けると3人とも嬉しそうに笑っていた。
その後は、今後の神様との対話方法や、よくない妖や、霊体から身を守る方法を教えてもらった。
もう大丈夫ですね。と、確認した後、啓介先生が真剣な顔をした。
「田島さん、これから合わなくなったもの、不要な物事が、強制的に「終わる」という事が起こります。でも、それは次のステップへ行くためのプロセスと捉えてください。それから、」
そういうと、改めて啓介先生は向き直った。
「一緒に活動をしませんか?」
一瞬なんの事かわからず、聞き返した。
「活動というのは…?」
「私たちが行なっている、浄霊と浄化の活動です。」
柴田先生の言葉に危うく咳き込みそうになったが、湯飲みをテーブルに置き、もう一度柴田先生の顔を見た。
「突然こんな事を言われて、驚かれたと思います。ごめんなさいね、驚かせてしまって。」
目の前に置かれた湯飲みから、温かいほうじ茶の香りが広がる。ぼうっと香る湯気の向こうに、真剣な表情の柴田先生、啓介先生、畠中先生が座る。
「田島さんの御守護の神様は、「浄化」と「お導き」のお力をお持ちです。このような方は滅多におられません。私も長くこの仕事をしてきましたが、初めてお会いしました。まさしく霊能者の方です。」
柴田先生は続ける。
「セラピーでもお話ししましたが、田島さんは、過去世で何度も霊能者として活躍されておられます。国や時代によっては、巫女や、シャーマン、そうですね、陰陽師だったこともあるようです。歌や舞、音楽で神にお仕えするような事を何度もされています。」
「そうなんですか。」
頭はかなりスッキリしてきたが、突然言われた事に驚きを隠せなかった。
「そして、霊的なものを見る事ができるのはギフトです。正式な修練を積めば、浄霊も、魂を元のピカピカな状態に戻す儀もできます。」
思ってもない言葉に、目が点になっていたのだろう。
緊張した空気を破るかのように、畠中先生が「そんな、びっくりしないでください。」と、笑った。
「田島さんが、やってみたいと思えばの話なので、全然深刻に考えないでください。ね、先生。」
畠中先生がそう言うと、柴田先生もウンウンと頷き、
「気軽に考えてもらえればいいですから。」と笑顔で付け足した。
もし、何かあればいつでも連絡ください。と、最後に畠中先生からも名刺を渡され、オフィスを後にした。
来たときと同じ道を通っているはずなのに、全く違う道を通っているようだ。
体が軽く、空が明るい。
思わず走り出したくなる気持ちを抑え、新宿三丁目の駅へ向かった。
ーーーーーー
それから2週間が経った11月2日の土曜日、意外な展開で夫との離婚が決まった。
保険業法に違反する契約があったらしく、降格処分となり九州へ転勤になったのだ。
父と母、3人でマンションに戻ると、雑然とした部屋に義理の母と夫がいた。
ほとんど会話にならなかったが、最終的に離婚には応じてくれた。
夫は、「お前たちが勝手に出て行ったんだから、お前たちの荷物はお前たちで処分しろ」と言い放った。
家財道具やマンションの売却など、やることは多かったが、この人と縁が切れるならと引き受けた。
夫は莉奈に会わせろと、何度もせがんだが、今の状態でとても会わせられないと父が突っぱねた。会わせないなら養育費は送らないと怒鳴る夫に、お前のような男から金はいらん!と、父が怒鳴った。
父のこんな姿は初めて見た。
年を取り、すっかり痩せた背中にまた、力がみなぎったように見えた。
母も同様に驚いていたが、帰りの車の中で「見直した」と、上機嫌だった。
(これがセラピーの効果なのだろうか…)
啓介先生の言っていた「強制的に終了する」と言う事だったのか。
車の窓の外を眺めると、曇り空からポツリポツリと雨が降って来た。
心に溜まった泥を少しずつ洗い流してくれるようだった。
家に帰ると、莉奈はダイニングでお気に入りの本「ルドルフ ともだち ひとりだち」を読んでいた。
「莉奈、ちょっといいかな。」 うん?と顔を上げた莉奈に離婚することを伝えた。
莉奈も薄々感じていたようで、「うん。良かったと思う。」と大人びた口調で言うと、更にもう一度、「うん。良かった。」と、何かを納得するかのように呟いた。
「もう家には帰らないの?」
「うん。お父さん仕事で九州に行くことになったの。だからもうあの家には住めないの。帰りたかった?」
「うぅん。でも、彩ちゃんと、蓮君に何も言えなかったから。」
莉奈はそう言うと、俯いた。
転校してから、莉奈の友達との連絡は全て絶っていた。
永沢さんの一件以来、誰も信じられなかったからだ。
もし、子供達の口から、莉奈の状況がママ友を通して、夫に伝わったらと思うと恐ろしかったのだ。
「ごめんね。でもまた、みんなに会えるから。手続きが終わるまで、もう少しだけ我慢してね。本当にごめんね。」
ポロポロと涙をこぼした莉奈を抱きしめた。
それからの2週間は怒涛のように過ぎ去った。
手続きに追われる日が続き、転職活動もできなくなった。離婚届の提出や、住所の変更、銀行口座の名義変更。
夫の名字を名乗らせたくなかったので、莉奈も旧姓の太田に戻した。
家財道具の処分もしたが、不思議と疲れる事もなく、全てが順調に進んでいった。
ようやく片付いた頃には、11月も中盤に入り、冬の気配がしていた。
家で掃除をしていた日曜の朝、先崎君からメールが届いた。
「お久しぶりです。お元気ですか?もう落ちつきましたか?」
音楽祭の後、一度メールをしたきり、全然連絡を取っていなかった。
「ありがとう!ごめんなさいね、全然話せなくて。あんなに心配してもらったのに。」
すぐ返信があった。
「いいえ、元気そうなら良かったです。
実は、俺も10月でピアノ教室辞めたんです。今は、渋谷のライブハウスでバイトしてます。」
先崎君によると、私がピアノ教室を辞めてすぐ、生徒の保護者達から苦情があったらしい。永沢さんが、言いふらしたのが原因で、「そんな先生がいるところに子供を預けられない。」と、数人の生徒が辞めたようだ。彼も噂のとばっちりを食い担当していた子供たちも数人辞めた。
「ライブハウスだと機材にも触れるんで、こっちのバイトにして良かったです。それで、急なんですけど、明日の昼間って空いてたりします?明日休講になって時間空いたんです。バイト行く途中に学大通るんで、ご飯でも行けたらいいなと思って。」
急な誘いに、少し戸惑ったが、助けてくれたお礼もできていない。
明日は、莉奈も学校だから夕方までに帰れば良いだろう。
「ありがとう。昼間なら大丈夫だけど、自由が丘でもいいかな?。学大だと一目があって。(-_-)」
もしも誰かに見られ、変な噂を流されたら?と警戒心が働くようにもなっていた。
「全然大丈夫です!^-^笑」
察してくれたのか、すぐに返信があり、12時に自由が丘の駅前広場で待ち合わせることになった。