ファイル8 先崎浩一:中編
2014年9月21日 日曜日 朝8時35分。
莉奈と母と3人、「学芸大学駅」 西口のマクドナルドで朝食をとった。
「お母さん、パンケーキの蜜ってこんなに甘かったんだね。」莉奈はもぐもぐと、美味しそうにパンケーキを頬張ると、オレンジジュースを飲んだ。
「莉奈ちゃんは、好き嫌いないから偉いね。」
「おばぁちゃん、あのね、莉奈ね、この前休み時間に【貴婦人の乗馬】弾いたの。みんな凄い!って言ってくれたよ!」
「そう。莉奈ちゃんもピアノ上手だものね。」
ボックス席で向かいに座った母は、莉奈の顔を見ながら微笑んではいるが、目の下のクマが疲れを物語っていた。
母は、60歳を過ぎているが、今でも現役でピアノを教えている。明るい母だが、昨日は夜遅くまで泣いていた。
9月19日金曜日の夜、莉奈と2人で家を出た。
きっかけは、些細な事だった。
莉奈がピアノの練習をしている時、ヘッドフォンのジャックが外れ音が漏れた。
そのまま気づかずに、弾いていると、「うるさい!」と、子供部屋に夫が怒鳴り込んだ。
駆けつけると、莉奈がショックで泣いていた。それでも怒鳴るのをやめないので、「いい加減にして!」と、夫に怒鳴った時、思い切り突き飛ばされ、クローゼットで頭を打った。
血は出なかったが、後頭部にこぶが出来た。
しばらく頭を抑えて動けずにいると、お前が悪いんだ!と怒鳴り、夫はまた家を出ていった。
「莉奈。今からおばあちゃん家行くよ。」
怒りに震える声で立ち上がった。莉奈と手を繋ぎ、そのままの格好で、家を出ると電車に乗った。
夜中に突然帰ってきた私を見て、最初母は目を丸くしたが、すぐに事情を察してくれた。
「莉奈にこんな事するなんて…」
母は、玄関口でまだ震える莉奈を抱きしめると、しばらく動かなかった。
「好子、しばらく家にいなさい。お父さんのことは気にしなくていいから。」
右手で頬杖をつき、紙コップの底に残るコーヒーを見つめながら母は言った。
父は、ただの夫婦喧嘩だと思っている。
昔からそうだが、父は深刻な事はいつも避けていた。
昨年区役所を定年退職してからというもの、一気に歳をとったようで、白髪がまた増えていた。
今朝、「今日帰るんだろ?」と、何食わぬ顔で聞いてきたので、怒って母と3人で出てきたのだ。
「莉奈ちゃん。しばらく学校お休みしよう。おばあちゃんと夏休み過ごせなかったから、一緒に遊ぼうね」
「えー!いいのー?嬉しいー」
莉奈には、しばらくおばあちゃん家でお泊まり会をする事になったからね。と話したが、莉奈はわかっていたと思う。家に帰ろうとは絶対に言わなかった。
マクドナルドを出ると、3人で少し散歩をしようと、久しぶりに碑文谷公園に寄った。
日曜の朝なのに、犬の散歩をする近所の人が数名通った他は、誰もいなかった。
池の端に小さな弁財天のお堂がある。子供の頃は、よくお参りに来ていた。
音大の受験の前日もそうだが、「透明な人達」や、よく分からない奇妙なものに追われた時、駆け込んでいた。
鳥居の前まで来た時、すっと光が射すように見えた。
丁寧に手入れされた、大きな松の枝をくぐり、朱色に塗られた橋を渡ると、目の前に古びたお堂がある。急な階段を登り、ガランガランと、莉奈と一緒に鈴を鳴らした。
ポケットから小銭を出し、お賽銭を入れ、「どうか無事に乗り越えられますように。」と祈ると、神様に通じたのだろうか?柔らかい風が吹いたような気がした。横を見ると莉奈も何かを真剣にお祈りしているようだった。
莉奈が公園のブランコで遊んでいる間、藤棚の下のベンチに腰掛け、母にこれからの事を相談した。
とりあえず、今の仕事はこのまま辞めることにした。
もし明日、職場に怒鳴り込みにでも来られたら、子供達に迷惑がかかってしまう。
広場の時計が10時を過ぎたのを確認すると、スマホの電源を入れた。
着信履歴が表示される。夫からの着信が14件。
昨日の夜からひっきりなしにかかっていたので、ずっと電源を切っていた。
着信拒否に設定すると、ピアノ教室に電話をかけた。
「もしもし、田島です。」
「あ、はーい永沢です。田島先生、どうされました?」
「松本主任いますか?」
「いいえ、主任は水曜までお休みされてますが、お急ぎですか?」
このまま永沢さんに事情を話すべきか考えたが、月曜以降出社できないので、やはり理由も伝えることにした。「実は・・・」と電話で事情を伝えると、
「あの、それなら、そうですよね。はい。主任には私から連絡します。月曜と水曜のクラスは他の先生にお願いしますので。」永沢さんはそう言うと、今どこにいるんですか?と聞いた。
「今は実家にいます。もし郵送するものがあれば、実家の住所に送って頂けると助かります。」
「わかりました。また私か、主任から連絡しますね。」
ほっとして、電話を切ると、3人で公園を後にした。
ところが、次の日。
2階の空き部屋を莉奈と寝られるように片付けていた時、思いがけず先崎君から電話があった。
「もしもし、田島先生ですか?」
「あ、先崎君。ごめんね、もしかして私のクラスの子供達引き受けてくれた?本当にごめんね、迷惑かけてしまって。」
「いや、それは全然大丈夫です。気にしないでください。それより田島先生、大丈夫ですか?」
「大丈夫って何が?」
先崎君の声がおかしい。鬼気迫っているようで早口だ。
「永沢、あいつマジで最悪です。田島先生と旦那さんの事みんなに言いふらしてます。」
「え…」
喉の奥から声にならない、声が漏れた。
「しかも、俺と先生が付き合ってるとか、変な噂もたててます。」
「ちょっと待って、どう言う事?」
サーっと、血の気が引く。喉の奥がまた冷たくなる。
「さっき、先生の旦那さんから電話があったみたいです。俺たまたま近くにいたから、聞こえたんですけど、そしたらアイツ「実家にいるみたいですよ。」って喋りやがった。田島先生、俺事情はよく分からないけど、逃げた方がいいです。もし泊まれるなら今日だけでも、ホテルとか友達の家とか絶対行った方がいい。」
「嘘…」
目の前が真っ暗になり、指先が冷たくなる。
「先生、大丈夫ですか?俺そっちまで行きますよ!」
先崎君の声に我に帰り、「うぅん、大丈夫。ありがとう、教えてくれて。なんとかするね。」早口でそこまで言うと、電話を切った。
鼻息が荒くなり、得体の知れない震えが全身を走った。
何が起こっているのか理解するより早く、着替えを買いに行った母と莉奈のところへ急いで向かった。
その日は、莉奈と2人で、五反田のビジネスホテルに泊まった。先崎君の言った通り、その日の夕方夫が実家にやってきた。ようやく事情を理解した父と母により、夫を追い返したと母から8時ごろ電話があった。
「変なこと言ってたわ。あんたが男を作って出て行っただの、莉奈を返せだの。でも絶対に手出しさせないからね。お母さん、あんた達の事絶対守るって決めたから。」
「お母さん…ありがとう。」
ほとんど声にならなかった。
「明日はもう大丈夫だから、帰っておいで。」
母からの電話を切り、はぁっと息を吐き出した。心配そうに見ていた莉奈を抱き寄せた。
「もう大丈夫。大丈夫だからね。」
莉奈は、何も言わなかったが、緊張が解けたようで、ぽろぽろと泣いた。
しばらくすると、また着信があった。
先崎君だった。
「もしもし、先崎君?」
「田島先生、良かった、繋がった。先生大丈夫ですか?」
「うん、教えてくれてありがとう。本当に、ありがとう。」
安心したせいか、次々と涙が零れ落ちた。嗚咽交じりにもう大丈夫だと言うと、先崎君は、困ったことがあったら、なんでも言ってください。教室にある先生の私物、俺持って行くんで。と言ってくれた。
「本当に迷惑かけてしまって、ごめんね。本当に。」
「いや、迷惑はかけてください。人間は生まれたときから迷惑をかける生き物だって親父が言ってました。」
地獄に仏だ。
「田島先生、俺何もできないけど、音楽祭ぜひ来てください。きっと元気になると思います。」
「うん。ありがとう。」
鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を拭き、電話を切った。
翌日は、莉奈の転校手続きと、役所への往復。それから仕事も探さなくてはならない。夫との間には母が入ることになり、慌ただしく時間が流れた。
そして、音楽祭の日になった。
莉奈を連れ2人で賑やかな大学のキャンパスに入る。
アナと雪の女王のエルサに仮装した学生や、クレープや、焼きそばの美味しそうな匂いのする出店が並ぶ。久しぶりに賑やかな場所に来た。莉奈は嬉しそうに辺りを見回していた。
「田島先生!」先崎君が門のところまで走って来た。黒のジャケットを羽織り、今日は髪型もきちんと整えている。
「先崎君。」駆け寄り思わず握手をした。
「これ、持って来たんですけど全部ありますか?」左手に持った紙袋を渡され中をみると、ピアノ教室に置いていた私物が入っていた。
「わざわざ、ごめんね。ありがとう。」
涙声になりながら、お礼を言うと、莉奈が「こんにちは。」と上目遣いに挨拶をした。
「初めまして。えっとお母さんと一緒に働いていた先崎浩一です。お母さんにはとてもお世話になっております。」
浩一君は屈んで莉奈の目線に合わせ、丁寧に挨拶をすると、莉奈は、へへへと笑い、私のスカートを握りピタリとくっついた。
「今日はディズニーのメドレーもあるので、莉奈ちゃんも楽しんでもらえると思います。」
新しいパンフレットの裏側に莉奈の知っている曲がたくさん書いてある。
「開演までまだ時間あるから、良かったら何か食べませんか?」先崎君に促され、そのまま屋台で莉奈の好きなチョコバナナクレープを買い、特設の会場で3人で食事をした。
こんなに楽しく食事をしたのは何年ぶりだろう。
心臓が締め付けられるような緊張もなく、莉奈が美味しそうに食べるのを見てホッとした。
「先崎君、ここにいたんだ。」
黒縁メガネのひょろっとした男性がニコニコしながらやって来た。
「あ、柴田先生」
先崎君が立ち上がる。
その男性は私に会釈すると、「先崎君のお姉さんですか?」と聞いた。
「いいえ、バイト先でお世話になってる田島先生です。お嬢さんと一緒に来てくれたんです。」
「あ、そうだったんですね。すみません。オペラ歌手のお姉さんかと思いました。失礼しました。」
違う違うと、恥ずかしそうに私が笑うと、先崎君が、「心理学の准教授の柴田先生です。」と紹介してくれた。
「初めまして。柴田啓介と申します。今日はぜひ楽しんで行ってください。」
それでは、お邪魔しました。そう挨拶すると、柴田先生は人混みに消えて行った。