ファイル8 先崎浩一:前編
防音室のルームAとルームBは、ガラス越しでお互いの様子が見えるようになっている。
ルームAに入った先崎君に備品や、大体の設備を教えた。部屋を見回し軽くと頷くと、「ちょっと試し弾きしてもいいですか?」とピアノの前に座った。
私が防音室の扉を閉めるとすぐ、「月光第一楽章」を弾き始めた。
音階が広く半音の多いこの曲は、試し弾きに向いている。途中の連打をするとき、音の響きが優しかった。弾き方によってその人の人柄が出るが、彼は見た目以上に繊細なタイプだとわかった。
「ありがとうございます。大丈夫です。」
先崎君は、途中まで弾くと満足したようで、渡された名簿から子供達の練習曲と進み具合を確認した。
隣のルームBから様子を時々見ていたが、初めてとは思えないほど、子供たちとすぐに打ち解けていた。新任の先生によくありがちな、堅苦しさもなく、進み方も問題なさそうだ。この日最後のマリカちゃんのレッスンを終え、防音室を出た後、休憩室の先崎くんに声をかけた。
「すごいですね。子供の扱い慣れてるんですか?」
おーいお茶のペットボトルを机に置き、先崎君は振り返った。
「あーはい。副専攻で心理学勉強してるんです。僕は音楽専攻なんですけど、うちの大学色々あって。」
「へー。今の大学って凄いんですね。」
「いや、全然凄くないです。児童心理学勉強したとこだったので、たまたまです。」
そう言うと、あのこれよかったら。と、ポケットから蜂蜜のど飴を出した。
「え、いいの?ありがとう。」
「あ、はい。今日色々教えて頂いたので。」
帰りのバス停が同じだったので、一緒に帰ることにした。
聞くと、実家は仙台で上京して3年になるらしい。
上にお姉さんが1人いて、地元でオペラ歌手として活躍されているようだ。
「田島先生のご家族も音楽されるんですか?」
「ううん、私だけ。娘には時々家でピアノ教えるけど、主人は全く興味がなくて。」
「娘さん何歳なんですか?」
「10歳。今小学校4年生なの。」
「えー、そんな子供いるようには見えなかった。」
先崎君は、凄く若く見えますと言い、私を笑わせた。
「それじゃぁまた。」
バスに乗り、先崎君と別れた。
つり革を持ち、窓の外をぼーっと眺めていると、ブーっと鞄からスマホの振動が響いた。
スマホを取り出し、画面を見ると、やはり夫からのメールだった。
「遅くなる。お前は早く帰れ。」
短い文面を見るだけで、また胸がキュッと締め付けられる。
「わかった。」片手でたった5文字打つだけでも、指先が冷たくなった。
窓を見ると、自分の顔が映った。痩せた頰、落ち窪んだ瞳。音にならないため息が漏れ、またつり革を握り直した。
「ただいま。」
家に帰ると、莉奈がリビングで図書室で借りてきた本「ルドルフとイッパイアッテナ」を読んでいた。
「おかえりー」
「ご飯すぐ作るから、ちょっと待ってね。お父さん今日も遅いみたいだから。」
台所で手を洗い、野菜室からカボチャを取り出したところで、莉奈がすぐ側にきた。
「お母さん。お化けって本当にいるの?」
「えっ?」
突然の娘の言葉に聞き返した。
「どうしたの?」
手を止めて莉奈の方を見る。
莉奈は、ポツリポツリと話し出した。
放課後、いきものがかりの当番で校舎裏の畑に水を撒きに行ったらしい。
同じ係の蓮君と彩ちゃんと3人で行ったのだが、娘には植え込みの影にもう1人男の子が立っているのが見えたらしい。
声をかけたが、一瞬目を離した隙に、いなくなったと。
蓮君と、彩ちゃんに聞いたら2人からは、「そんな子いないよ。」と、言われたようだ。
「お母さん、あの子お化けだったのかな?」
莉奈は、つま先立ちになったり、踵を床につけたり、落ち着きがない。
「莉奈。何も気にしなくていいからね。お化けだったとしても、放っておきなさい。もしまた見えても何もしちゃダメよ。」
「なんで?」
「莉奈には何もできないでしょ?お友達が見えないんだったら、みんな怖がってしまうわよ。言うのは、お母さんだけにしなさい。ね。」
「うん…」
莉奈は、何か腑に落ちないような感じで、ソファーに寝っ転がると、また本を読みだした。
どう教えればいいんだろう。
莉奈は幼稚園の頃、生まれる前のことを話してくれた。
「お母さん、あのね、りなちゃんね、お母さんのお腹の中に入る前に、神様といっぱいおしゃべりしたの。」
「どんな話をしたの?」
「あのね、お、お空の上からね、どのお母さんのところに行く?って神様と相談してたの。そしたらね
お母さんが見えてね、りなちゃん、ここに行きたいって言ったんだよ。」
「そうなんだ。すごいねー。お母さんを選んで来てくれたんだね。」
「そうだよ。お母さんを大切にしてあげられるのは、りなちゃんなんだよ。」
あの時の会話を時々思い出す。
幼少期に生まれる前の記憶を持つ子供たちはいると、聞いたことがある。莉奈もそうだ。
ほとんどの子供達は成長するに従って、忘れてしまうと言うが、莉奈の場合、霊感が強く出てしまった。
私と同じだ。
子供の頃から、よくわからないものが周りに沢山いた。
「透明な人たち」と私は勝手に呼んでいたが、自分にしかわからないと気がついたのは小学校低学年の時だ。
中学2年生の夏、オカルトがブームになり、「こっくりさん」が学校で流行った。
小学校から一緒だったクラスメイトに、霊感があるからと、無理やり誘われ、部屋に入った瞬間、口が耳まで裂けた大きな妖が笑うのが見えて、怖くて走って逃げたことがある。
それからしばらく、そのクラスメイトは口を聞いてくれなくなった。
今日は変なことばかり思い出す。
頭を軽く振り、ため息をつくと、まな板の上のカボチャに包丁を突き立て、勢いよく切れ目を入れた。
ー2日後ー
先崎君は、すっかり人気者になっていた。
男性のピアノの先生は珍しく、送り迎えのお母さんたちや、生徒達から人気の的になっている。
「えー!浩一君のお父さんって、お医者さんなんですか?すごーい。」
永沢さんが、キャーキャー声を出しているのが聞こえた。
「じゃぁ浩一君も頭もいいんだー。」
「いや、俺は頭悪いです。俺だけ馬鹿なんで。あ、田島先生。おはようございます。」
「おはようございます。」
先崎君は、私を見つけると、嬉しそうな顔をした。
「先生、ちょっといいですか?」
先崎君は、私の腕を引っ張り、ルームAの防音室へ入った。カバンから古い雑誌を取り出すと「これって田島先生ですよね?」と、10年も前のインタビューの記事を見せた。
「田島先生って、新国立劇場のオケピで演奏されてたんですか?」
「え、なんで?なんでこんなの持ってるの?」
「うちの大学演劇学科もあって。ミュージカル音楽も作曲したりするんです。たまたま学校の図書室でオケピの取材記事見つけて読んでたら、すごい顔似てると思って。旧姓って太田なんですか?」
「あ、うん。そう。」
音大を卒業した後も、しばらく大学オーケストラのピアノパートとして呼ばれることがあった。
縁あって、新国立劇場でバレエ公演があった際、抜擢され、それが記事として残っていたのだ。
20代の頃は、地方の公演にも参加することがあったが、活動に時間もお金もかかることから、結婚を機に引退した。
「やっぱり、すごい人だったんですね。」
「全然、そんなことないよ。もう昔の話だから。」
「いや、マジですごいです!尊敬します。」
胸のあたりが、温かくなる感覚はいつ以来だろう。長い間感じていなかった心地よさが頰を綻ばせた。
あ、そうだと、先崎君はカバンからA4サイズのパンフレットを取り出すと、はいと、差し出した。
「来月なんですけど、うちの大学で音楽祭やるんです。良かったからご家族で遊びに来てください。」
「え、いいの?」
「はい。無料で観られるので。ぜひ。」
10月3日 日曜日 10:00
O大学 「大人と子供のためのクラッシック音楽祭」
「ありがとう。」パンフレットを受け取ったところで、「コンコンコン」と、強いノックの音が聞こえた。
「田島先生、愛梨ちゃん来られたので準備お願いします。」永沢さんはドアを開けるとそう言い放った。先崎君にありがとうと言うと、すぐルームBに向かった。
ーーーー
その日の夜。
「ねぇ、今日うちでアルバイトしてる大学生から大学の音楽祭に誘われたの。みんなで行ってみない?」
缶ビールを空け、テレビのニュースを夫は観ている。
これなんだと、パンフレットを見せると、夫は突然箸を置き、低い声で呟いた。
「お前さ、何か勘違いしてるだろ。」
「え?」
夫はテレビの画面を見たまま呟く。
「誰のお陰で好きな仕事させてやってると思ってるの?」
「どういう意味?」
喉の奥が冷たくなるのを感じる。
夫が低い声で話し始めると、その後は決まって怒り出す。
「お前の趣味に俺たちを巻き込んでるんじゃねーよ!」
突然バン!と、机を叩いた。
「お前はいいよな。俺が稼いでいる間、適当にピアノ弾いて、家事して子育てして。挙句に大学の音楽祭?お前自分の立場わかってんの?」
「それとは全然関係ないじゃない。莉奈だって勉強になるわ。」
「莉奈が行きたいって言ったのか?え?おい、そうなのか?なぁ」
「ちょっと、飲みすぎよ。」
「おい、莉奈起きろ、なぁ莉奈。起きろ」
「やめてもう何時だと思ってるの?」
バン!
壁を叩いた。
「思い上がるなよ!何様だお前は?」
夫は財布と携帯を持って外へ出て行った。
玄関のドアが乱暴に閉まる音がすると、力が抜けその場に座り込んでしまった。
心臓がもの凄い速さで、ド、ド、ド、ド、っと波打つ。
胸を押さえてもまだ、激しい動悸が続く。
「お母さん!」
莉奈が子供部屋から飛んで来た。
「お母さん、大丈夫?」
莉奈は、私の背中を小さい手のひらでさすると、「お水持ってこようか?」と聞いた。
「ううん。大丈夫よ、大丈夫。」
パジャマの莉奈をぎゅっと抱きしめ、その日の夜は泣いた。
※オケピ (オーケストラピットの略)
普段客席として使用しているスペースの舞台側の座席を外して周りの客席面よりも一段低くした場所の事でオペラやミュージカル、バレエ等の催事の際にオーケストラが演奏を行う場所です。