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「キートン、お茶と軽食を頼む」
トラヴィスの命令にキートンは一礼し、スルリと部屋の外に出る。
彼が出ていったドアは少し開けられ、密室で二人きりにならないように配慮がなされていた。
「クレア……」
「で、殿下っ」
「トラヴィス、とは呼んでくれないのか?」
私の耳元に囁くように告げ、トラヴィスは握っていた私の手に指を絡める。
部屋に二人で残されて、こんな体温が感じられるような距離にトラヴィスといる。
家族以外の男性とこんな密な状況になったことがない私はあたふたと落ち着きなく視線をさ迷わせた。
「こっちを向いてくれ、クレア」
どうしてもトラヴィスの方を見れない私に、通告が下る。
私はギギギッという音がしそうなくらい不自然に、頭をトラヴィスの方へと向けた。
そこには、私を愛おしそうに見つめるトラヴィスの顔があった。
「トラヴィス…さま…」
「クレア…今まで勇気が出なかった俺を許して欲しい。でも、今日は神より与えられたチャンスだと思っている」
トラヴィスが握った私の手にキスを落とす。
「クレア、好きなんだ。どうか、俺と結婚してくれ……」
真摯な声で告げられた。
トラヴィスから告白を受けるのはこれで二回目だ。
その時私はモーリーと結婚せよとの父の厳命に縛られ、応えることなどできなかった。
でも、私もずっとトラヴィスに惹かれていた。
ダメだと言い聞かせても、トラヴィスのことを好きになっていた。
諦めて、閉じ込めて心の奥底に沈めた気持ちを、今、解放してもいいのだろうか。
「クレア…?」
トラヴィスの声が不安そうに揺れる。
「……私はいいのでしょうか」
ずっと圧し殺してきた思いを解放してもいいなんて。
「この先の煩わしいことは、俺が責任持って上手くいくようにするよ。だから、クレアは俺のことだけ思っていて欲しい…」
「はい…はい、トラヴィスさま」
ただ、ただ、思いが溢れるように目から涙が溢れる。
それをトラヴィスは空いた手で拭う。
「クレア…俺のこと好き?」
私は喉が詰まったように声が出なくて、泣きながら何度も頷いた。
ふふっとトラヴィスが笑ったのがわかる。
「これからはクレアが俺に好きだって言ってくれるように頑張るから」
「わたしも…がんばります」
私はそれを言うのが精一杯だった。
「殿下、お運びしてもよろしいですか?」
ドアの向こうから、気をきかしたキートンの声がかかる。
私はあわててトラヴィスから離れ、向かいの席へと移動するのだった。
キートンと家人が部屋に入ってきて、皿に盛り付けられた食べ物が置かれていく。
今日の夜会に出された食事をサーブしてくれたようだ。
デキャンタにワインと果実水が用意されている。
「俺はワインを…クレアは?」
「では、私は果実水でお願いします」
退出した家人に代わり、キートンが飲み物をついでグラスを渡してくれる。
「俺達二人の未来に、乾杯」
向かいあってグラスをかかげる。
ちょっとした晩餐会だ。
「モーリーには感謝しなくてはな」
「それは……」
今、別室では父とフォーズ侯爵立ち会いの元、モーリーとマリアンヌの婚約について話し合われているだろう。
「本当は今日、ここに来るまで迷っていたんだ。君を奪うか、君とモーリーとの婚約を祝うか…」
継承権持ちの王子であれば、結婚相手にも制約が出る。
バートン伯爵家なら、トラヴィスが万が一王となったとしても許される家柄だ。
「でも、クレアは俺に奪われるなんてこと望んでなかったろ?」
「トラヴィス様はいつもどんな時でも私の気持ちを大事にして下さいます」
モーリーは、私のことをほとんど気にかけることはなかった。
だからこそ、トラヴィスの優しさにクレアは惹かれてしまった。
自分のことをちゃんと見て、意見を尊重してくれること。
長らく家のしがらみで行動が制限されていた私には、新鮮だった。
「モーリーは忠臣として俺の気持ちを慮ってくれたのかな」
「それはないと思います」
冗談めかしたトラヴィスの言葉に、強い否定を返した私を、トラヴィスが片眉を上げてうかがってくる。
「だって彼はこの婚約を受け入れていたのですから…」
まさか、こんな土壇場でひっくり返されるなんて思ってなかった。
マリアンヌへの想いも学生の時だけだから、とそう言っていたのに。
実際、モーリーとマリアンヌが今まで付き合っているなんてこともなかったように思う。
さすがにそんなことなら、噂の一つでも上がっていたはずだ。
マリアンヌも婚活中だなんて言っては、お茶の場でよく愚痴をこぼしていた。
二人が嘘をついていたとは考えにくい。
だから、私はモーリーと結婚しようと思ったのに。
誰もが貴族らしく定めと務めを果たそうとしていたはずだった。
「それとね。これはまだ未発表なんだけど、兄上のところに男子が誕生したんだ」
「まあ、それはおめでたいことですわ」
「だから、クレアとのことは簡単に許してもらえると思う」
「それは……少し安心いたしました」
トラヴィスと私の間の障害は、モーリーとのことだけではなかった。
トラヴィスが王位継承権第二位であり、王太子であった兄ミスティークの身に何かあれば彼が王位につかねばならなかった。
それなら、トラヴィスの正妃はいずれ王妃となるそれなりの家柄の女性でなければならなかった。
しかし、ミスティークに男子が生まれたとなれば、まだ赤ちゃんとはいえトラヴィスの王位が遠退く。
王位を望まないトラヴィスにとって、これ程嬉しいことはなかった。
「では、後はお父様との話し合いでしょうか…」
私はトラヴィスと共にいられることになったのだから、今まで反抗してこなかった父ときちんと向き合わなければならない。
「たとえ、父に反対されても…私はもう、トラヴィス様と共にいると決めました」
私は情もない婚約者より、愛する人に選ばれた。
たった数刻前の悔しさなんてどうでも良くて、今胸に占める幸せを実らすために頑張るしかない。
「うん、それでこそ俺が好きなクレアだ」
決意の表情をする私に、トラヴィスは嬉しそうに頷いた。
コンコンと、部屋のドアが鳴る。
キートンがドアを少し開け、応対をしている。
「殿下、バートン伯爵令嬢様、バートン伯爵夫人並びにカイト・バートンが参りました」
「入ってもらえ」
どうやら、兄が母を連れて来たらしい。
部屋に入ってきた二人が、トラヴィスへと礼をする。
「ここはどうぞ無礼講にてお願いします、バートン伯爵夫人」
母親は最上級のよそいきの笑顔を浮かべ、トラヴィスに促されて私の隣に座った。
キートンがトラヴィスの背後に立ち、カイトはドアの前へと位置をとった。
「この度は何か手違えがあったと聞き及んでおります」
母にワインをすすめながら、トラヴィスが口を開く。
「ですがその手違いのお陰で、私は自分に正直になろうと決断ができたのですよ、夫人」
王子様スマイルを浮かべるトラヴィスに、母だけでなく私もクラクラしそうになる。
「今宵、クレア嬢に求婚することが叶いました。バートン伯爵夫人には後の報告になり、申し訳なく思っています」
「まあ!本当なの、クレア!?」
パニックに陥った母が、私とトラヴィスの顔をいったり来たりと交互に見てくる。
入り口に立っていた兄は、訓練された騎士にそぐわない態度で、咳き込んでいた。
「父やバートン伯爵にはまたきちんと許しを頂くので、今日のところは私の気持ちを伝えただけですが、クレア嬢には了承をいただきました」
「そ、そうでしたの。私としてはクレアと…娘がよければそれでいいですわ」
良かった、良かったと涙を目に溜めて喜ぶ母は、もしかしたらモーリーとの結婚に乗り気じゃない私の気持ちに気付いていたのかもしれない。
「後日、父の許しを得て、バートン家にうかがいます」
「お待ちしております、殿下」
母親が頭を下げ、そしてこの場はお開きとなった。
父を置いての帰りの馬車、私は母と兄にモーリーとトラヴィスとのことで質問攻めに合うのだった。