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生きる上での哲学論

作者: 市井れん

 過去、現在、未来。過去というのは今ではない過ぎ去った時間のことだし、こうしてこれを書いている瞬間ですら、すでに過去の産物だ。未来はいつでも今の一歩先にあって、そこで何をすべきなのか僕達は常に考えている。そんな時間ですらすぐに過去に挨拶してしまう。今という狭間が一瞬で切り替わっていくから、僕にはどうも一生出会えないように思えるんだ。大切にしなさいと言われる割には、どう大切にすれば良いのか見当がつかないくらい曖昧だ。結局未来を大切にするのが一番という結論になる。こんな僕が考えている哲学的なことを、彼に話すのだが、いつも難しい話は良い。と打ち切られてしまう。頭が良い彼だが、僕が言うことは理屈っぽすぎる上に、明確性に欠けるとさいさん言われている。彼の言う難しいというのは、人によって答えが変わってくる問題という意味だ。数学のように答えを求めれば必ず等しく出るものが、彼が頭を使いたい対象である。それに対して僕は、考え続けても答えが出ないもの、もしくは時間の経過や自分の心の有り様で変わっていくものに頭を使うのが好きなので、僕等二人がこうしてテーブルを挟んでコーヒーとオレンジジュースを飲んでいる状況は実に不思議だ。

 趣味も合わないし、得意な教科も全くの真逆。クラスは隣で、一緒の授業は体育の時以外ない。部活も違えば、注目する場所も違う、食べ物も合わず、服の趣味だって違う。こんなにも重なり合う部分が違う僕等がどうして一緒にいるのかというと、答えは簡単だ。僕の母親と彼の父親がこの春めでたく再婚をし、その連れ子が僕等だったのだ。さらに驚くべき事実としては、母のお腹には新しい命が宿っているということ。子供達が高校を卒業するまでは再婚しないと言っていたが、赤ちゃんが出来てしまった以上ストッパーは無意味になった。四十になって、まさか子供を産むとは自分でも思っていなかったそうだが、宿った命を無下にするという選択肢など最初からなかった。産まれようとしている命の道を塞ぐ資格は誰にもない。こうして僕等は兄になることを運命づけられたのだった。

 もうすでに母のお腹は四十週目に入り、触らせてもらったら、スイカのような弾力でもって張りつめていた。風船に水を隙間なく入れたってこんな様にはならないだろう。そもそも針が刺さった所で割れたりはしない安全な場所だ。寧ろ微かな刺激があった方が喜ぶかもしれない。食べるのも一苦労、もちろんトイレやお風呂、そして家のあらゆる家事をするのにも、大きなお腹を抱えた母には大変そうだ。その為、出来る限りではあるけれど、僕等は家事を率先して代行した。そもそもが片親同士、家事に関して言うならば、二人とも中々のプロフェッショナルなのだ。仕事をしてくれている人がいれば、それをサポートする人になる。そんなふうに僕等の位置は同じだった。再婚当初は母が家事を全面的に担っていたので、逆にやらないでいることが不思議だった。学生の本分は勉強なんだから、勉強をしなさいと、部屋に追いやられて、宿題もやってしまった後に特にやることが思い付かず、答えが出ない問題を作り出す妙な癖ができてしまった。最近考えていることは、今という定義についてである。何を持ってそれを今と名付けるのか?似通った結論は出ても、まさしくこうだという結論には至らない。見つかるのが自分だけに通用するものであったとしても、僕は僕なりに今をこの手に掴んでみたいと思っているのだ。それは、時が経っても、住む場所が変わっても、絶対的に変わらない答えであるべきだ。難しい問題にも、変わらない答えが出る日が来る。そうあって欲しいと思うのはただの僕のわがままかな?変わっていくのが当たり前の世の中だ。答えを守るにはそれ相応の犠牲と覚悟が必要だろう。例えばそう、ピーマンが嫌いだと答えを決定付けた場合、僕は一切ピーマンを食べない。身体に必要な栄養がピーマンからしか摂れないと言われても食べない。天ぷらにしたら苦みが減って美味いと言われても食べない、チャーハンに細かく刻まれていても一つ一つ箸で除けて食べる。人になんと言われようとも決して生涯ピーマンは食べない。それで何を失うかというと、もちろん周りの溜息であり、ピーマンを作っている農家への裏切りであり、その葉に照り付ける太陽すらも呆れさせるだろう。ただの食べ物をここまで嫌える人という生き物も大概不思議なものだ。その味覚の真実性、嫌だと思った物に対する拒否の確実性。ピーマンはただ日を浴びて水を吸い、実を大きくしているだけで、食べて欲しいだなんて一切思っていないかもしれないのに、手にした植物に対して僕達はなんと上から目線なのだろう?人が食べる為に作られていたとしても、植物は人に食べられようとして生きている訳ではない。ただそこにあるのは、次へと遺伝子を繋ごうと連綿と受け継がれている、種を作り出すたった一つの生命活動である。僕達はそれを利用させてもらっているに過ぎないし、もしくは利用されているのかもしれない。ピーマンに限らず、牛や豚、鶏だって実は僕達が利用されているのかもしれない。人に害をもたらさない限り、淘汰されることはないのだから、彼らにとっては好都合だったのかも分からない。しかしどうして人間だけは、子孫を残すという目的以外に生き甲斐を求めるのか?考えることが人間の根本的な生命活動を弱めている。その可能性を僕は否定することが出来ない。

 おっと、そろそろ寝る時間だ。今日も我ながら良く考えた。自分の哲学に対する欲求には呆れる、でも考えるのは実に楽しい。結論が出なくても、それに意味がないとしても、考えることが出来る人間はなんて素晴らしい生き物なんだろう。僕は寝る前にいつも清々しい気分になる。夢さえ見ない深い眠りの中で、ようやく僕は考えない自分と出会う。そこにいるのは、ベッドで横になり、寝るという生命活動を全うしている生き物だ。


 寝覚めは良い方。目覚ましが鳴る前には目が開く。でも今日は夜中の二時に大きなサイレンと回転する赤い光の侵入で目が覚めた。下の階では大人達の歩き回る音、母の呻く声、地面の底から響いてくるような重い声だ。駆けつけた時には、すでに救急車に搬送されている所だった、彼の父が「とりあえず、家にいてくれ」と言い置き一緒に乗り込み、僕と彼だけが遠ざかっていくサイレンの音を聞きながら街灯しか照明がない玄関の前に突っ立っていた。

 二子目とはいえ、高齢出産であることは間違いない。今までが順調だっただけに、僕の頭の中は不安で一杯になった。

「とりあえず、家に入るぞ。この時間じゃタクシー位しか交通手段がない」

「自転車で行けば良いじゃん!」

「父がついてるし、命の危険があるなら、連絡してきてくれるさ」

「そんなの分かんないじゃん!人間なんていつ死ぬか分かんないだぞ。あっという間なんだからな!僕は後悔したくないから、病院に行く」

 全く信じられない。ここまで彼が冷たいなんて。僕は五キロ近くある病院までの道のりを自転車で走ろうと意気込んで物置を開けた。しかしそこにあったのは、乗れない自転車。忘れていた。数日前に近くのスーパーまで買い物に行った時に落ちていた釘が刺さってパンクしてしまったのだ。どうしよう、歩いていこうか。途方に暮れた僕の後ろに腕を組んだ彼がいた。

「バスの始発は六時十八分。その前に父から電話があったらタクシーを呼ぶ。来なかったらバスで行く。歩いてへとへとになってしまったら、手伝いだってできない」

「分かった。そうする」

 僕の返事を聞いて踵を返して、彼は家の中に戻っていった。自転車が使えないことを知っていたのだ。動転してまともな判断が出来なくなっている自分が恥ずかしくなってきた。どうして、あんなに冷静でいられるんだろう? 考えごとばっかりしてても、いざとなったらこの頭が一切役に立たないなんて、こんなに残念なことがあるだろうか。溜息がついつい口から漏れそうになる。ダメダメ。ついたところで何も変わらない。母が頑張っている今だからこそついちゃいけない。両手で頬を叩く。落ち着け、自分。

 部屋に戻ると彼は居間と続きになっている台所のテーブルで数学の宿題をしていた。そういえば明日は小テストがあるのだ。問題を解くシャープペンシルの音が耳にリズミカルに響く。僕も倣って国語の漢字を反復練習し始める。静かな部屋に二人の音が重なる。まるで世界にはその一室しかないみたいに静謐な時間だった。

「なぁ、話しかけても良い?」

「ああ」

 顔も上げずに彼は了承する。

「僕の父さんさ、小さな飛行機のパイロットだったんだ。良くチャーター便とか聞くだろ?そうゆう小さなプロペラ機を操縦してたんだ。休みの日なんて、時々空の散歩に連れていってくれたりしてさ。凄い恰好良くてさ、大好きだった。母さんもそんな父さんを誇りに思ってた。安全にはとても気を遣う人で、評判も良かったんだ。でも、ただ一度だった。ある日飛行機の調整飛行をしていた時に、着陸に失敗したんだ。父さんはすぐに救助されたけど、助からなかった。僕はお別れを言うことすら出来なかったんだ。その哀しさがずっと九歳の頃から僕の中に残ってるんだ。人はいつ死ぬか分からない。今なんていう曖昧さは、それが過去になってから、生きていたんだという事実になるだけで。本当にあるものなのかな?」

 僕は聞いていてもいなくても良いと思った。ただ話したくなった。

「相変わらず難しい話だな。数学のように美しくない」

「はは!」

 いつも通りの返答に僕は思わず笑ってしまった。彼は今も顔すら上げない。でも、答えを書く音が止まっていたことに僕は嬉しさを覚える。聞いてくれている。彼はそう言いながらも僕の話を聞いてくれるのだ。だから嫌いになりきれない。僕はきっとこの家族をもっと好きになれるだろう。

 その時突然電話のベルが部屋に響いた。僕が出遅れる中、彼は猛然と電話に向かっていき、受話器を乱暴に引ったくり耳にあて、数秒もしないうちにゴトッと受話器を床に落とした。え、なに、なにがあったの?母さん大丈夫なの? 

 そして玄関まで駆けだす。鍵を開いて今にも身一つで外へ飛び出しそうになる彼を追いかけて必死で止めた。

「待って待って、何があったの?さっき歩くのはやめようって言ったのお前じゃん。行くならタクシー呼ばないと!」

「父が急いで来いって!」

 彼の身体は小刻みに震えていた。いつでも冷静でいるのだと思っていた。でも、そうじゃないんだ。僕はすぐにタクシーの受付に電話をして、財布と二人分の上着を用意した。車が運転できない僕等はとても中途半端な年齢で、僕は時々歯痒くて仕方なくなる。

 タクシーが来るまでの間、二人でぼんやりと徐々に明りを纏っていく東の空を眺めた。淡い薄紅色。太陽は東の空から毎日産まれているのかもしれない。

 十分もしない内にタクシーがきた。

「K病院までお願いします」

 タクシーは太陽の産まれる方向に走り出す。建物の連なる黒かった空は徐々に青くなり、太陽の傍は橙になり、青と橙の狭間は桃色、見事なグラデーション。泣きたいような嬉しいような良く分からない感情が、僕の底から這いあがってきそうだった。隣を見ると彼もその光景を見つめていた。そして、太陽がようやく顔を出しそうになった頃、彼はぼそっと小さな声で、

「母は、弟を産もうとした時に死んだんだ」

 隣を見ることは出来なかった。彼が泣いていたからだ。かけられる言葉なんてなかった。大事な人を失くした哀しさが僕には分かる。言葉が役に立たないことがあることを知っている。なにもできやしない。早く病院に着くことを願うしかなかった。もう半分も太陽が顔を出していた。病院まではあと信号一つ。曲がってすぐだ。着いた途端、僕がお金を払う前に飛び出していく。

「お釣り要りません!」

 急いで追う。母さんは大丈夫なの?赤ちゃんは?走ってはいけないであろう廊下を全力疾走しそうになるのをなんとか堪える。精一杯の早足。分娩室の前、廊下の長椅子に座る彼の父の隣に立つ彼が見えた。その時に「おんぎゃあ」と産声が響いた。三人共、カーテンに隠れた先を廊下で見守る。そわそわ。それからどれくらいだったのかはもう覚えていない。

 呼ばれて母さんの横ですやすやと眠っている赤ちゃんを見て、男三人がわんわん泣き出す光景はきっと異様だったに違いない。そのせいで、その後病院に行くたびに僕等はくすっという看護師さんたちの口元に会うことになった。でも、赤ちゃんが無事に産まれてきてくれたことと比べれば、些細な、本当に些細なことだったんだ。

「見て、可愛い妹でしょう?」

 そんな妹を抱っこして彼は「美しい!」と感嘆し、彼の父は号泣し、僕は初めて触れた赤ん坊に言葉には出来ない愛おしさを感じた。小さな手に人差し指で触れてみる。柔らかな指は僕の指を力強く握った。僕はこの時に、本当に単純なことだけど、今というものが何であるのかが分かった気がした。それはきっと命の中にあるのだ。


 我が家に赤ちゃんがやってきた。僕等と十六も離れている。高校生になって妹が出来るなんて、どうしよう。二十歳になる頃には三十六だなんて、もう親みたいな心境じゃないか!それからは夜に泣くこともしょっちゅうだったし、母さんは久し振りの子育てにてんてこまいだった。でも、なんといっても我が家には、三人も主婦がいる。料理も洗濯も掃除もお手の物だった。母さんは、それはそれは助かった。まるで家の中に小人がたくさんいるみたいだったと妹が三歳になった今でも笑って話す。でも一番変わったのは彼だろう。だって、僕等兄妹揃ってオレンジジュースを飲むようになったんだ。

 今ではお互いに名前で呼ぶ。彼は難しい話を時々だけど一緒に考えてくれる。妹は産まれた時よりもさらに可愛くなり、兄達を毎日ほのぼのさせたり、懊悩とさせたりしている。彼氏なんて連れてきたら嫌だな。ああ、想像もしたくない。


 来年二十歳になっても、僕等は大人じゃないんだろう。冷静ではいられない時があるんだろう。変わらない確かな答えになんて行き着けないんだろう。でもそれで良い。例え今を見ることが出来なくても、未来と過去のいたちごっこが死ぬまで続いたとしても、今という見えない時間を自分の中に抱えて生きていく。

 僕は難しい問題の一つにようやく結論を出した。そしてこれからも色んな難しい問題について考え続けていく。精神が生き続ける限り。

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