影離れ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うお〜、待てこら〜っ!
――はあ、はあ、くっそー。おい、つぶらや、汚ねーぞ! 影が伸びる方向へ逃げてくなんて、影踏みじゃ反則だろ、反則!
しかも踏まれそうになるや、かがむなり、寝転がるなり、見苦しい格好で建物の影まで逃げやがって……ずりいだろ、そんなの!
――テクなんだから、何をいっても負け犬の遠吠え?
うっせ、バカチン! アホタレ! アンポンタン! 勝者のイキり顔が、俺は世の中でいっちゃん嫌いだ。次はぜってえ、ほえ面かかせてやる。覚悟しておけや。
だがよ、つぶらや。毎回、影踏みで大勝するのはいいけどな。お前、自分の影のことちゃんと管理しているか?
誰よりも自分にひっついて、行動を共にしている従者だ。そいつのお手入れっていうのも大切。具体的には……誰かに踏んでもらうとかな。
――負けおしみなんて、見苦しい?
ふっ、確かに悔しさも半分くらいある。だが、残り半分はマジもんの忠告だ。打たれ弱い、もとい踏まれ弱い影は、まれに「やらかす」ことがあるらしいぜ。
友達の話なんだが、聞いてみないか?
その友達も影踏みがめっぽう強くってな。つぶらやがやるようなことを駆使して、ひたすら影を踏まれないよう、気をつかっていたらしい。
もとの脚も早かったから、一対一だと高い逃走性能を誇る。そのままだと、すでに捕まった子たちが待ちぼうけするんで、彼らもまた鬼役となり友達を捕まえにかかることも、珍しくなかったんだ。
そしてある冬の日のこと。
相変わらず影踏みが学校では流行っていたが、この時期はやや鬼に有利だ。
学校の終わる時間は変わらなくとも、そのときの太陽の位置は、夏よりも変わっている。傾きの強くなった陽光は、より低い位置から皆を照らし、その影を長く引き延ばす。
友達の学校は、道路を挟んで向かい側に、某製薬会社のビルがある。学校の西側に建つそいつの影が、逃げる側にとってのメイン安全地帯となっていたそうだ。もちろん、影の中にとどまれる時間は決まっていたが。
セオリー通り、足の遅い者が自然と囮のような形で、次々に仕留められていく。追いかける者も、追いかけられる者も心得たもので、ある程度は追跡劇を展開するも、影の中で回復しきれないスタミナの差をつかれ、ひとりひとりと捕まっていった。
生き残ったのは、やはり件の友達。今回の鬼は足が速く、いつものような包囲網展開はなし。実に5分近い一騎打ちが繰り広げられたんだ。
一対一では、影に逃げ込むことを禁じるハウスルールがある。ひたすらに走るよりないが、敷地の端まできたら方向転換せざるを得ない。
ほとんど間を開けない鬼に追い詰められ、「やべえ、踏まれる!」と思った時。
脚を出しながら影を踏んだ鬼が「えっ?」と驚きの声をあげる。走る勢いのまま、少し距離を離した友達が見てみると、自分の影がちぎれていたんだ。
鬼が踏んだのは、友達の右腕にあたる。それが肩に至るまでの部分で、途切れていたらしい。友達の影も見ると、右腕の肩から先が不自然に消えてしまっているんだ。
友達はすぐ確かめた。自分の右腕はついている。押したり、叩いたりしても、なんの異状も感じない。なら、これはいったい……。
二人が少し目を離したスキに、すべては元通りになっていた。
鬼の足元にはすでに腕の影はなく、友達の影はしっかりと五体満足に戻っている。しばし顔を見合わせていた二人だったが、決着を察した他の参加者が駆け寄ってきて、この場ではそれ以上の追究はできなかったらしい。
その日から、友達と鬼だった生徒は気味悪さから影踏みに参加しなくなった。友達は右腕をケガする兆しだと思い、右手に触れるものなら、たとえ鉛筆やフォークだろうと細心の注意を払った。ランドセルに関しても、あえて左肩だけに架けるという、だらしないスタイルを貫いていったとか。
様子を見るようになって数日。ちらほらとだが、他の生徒の間でも「影がちぎれたんじゃね?」という噂を耳にし始めた。いずれも自分たちと似たようなもので、故意と過失を問わず、何かに踏みつけられた拍子に、そいつに自分の影を一部、ちぎり取られてしまうというんだ。
見たと話す人は多かったけど、すぐに影は戻ってしまう上に、再現性に乏しい。いざ先生の前で見せようとしても、ちっとも影は離れず、見間違いで片付けられてしまったらしかった。「ウソなんかついていないのに」と、気の短い子たちは怒りの雰囲気すら漂わせている。
更には、学校外で同じような目に遭ったという者も増えてきた。友達自身も、学校近くの道路を歩いていた時、車道にはみ出していた自分の影が、車にひき逃げされたんだ。
やはり細長く伸びていたから、腰から上をばっつりやられた。ほんのまばたきする間に戻ることではあるが、インパクトは強い。上半身をポンポンと叩きながら、自分の上半身を脅かしかねないものが飛んでこないか、現れやしないかと、気が気じゃない時間を過ごす羽目になったらしい。
それから更に、冬至が近づこうというところ。
学校から帰る時には、すでに日の入りが見える時間帯。万物の影もこれ以上ないほどに伸びていた。目撃数は減ったものの、やはり影をちぎられたという声は根強く、影踏みはすっかり下火に。
友達もその日は委員会で帰りが遅くなり、ささっと支度を整えて、校門を出た。
友達の通学路は、例の会社のビルの前を通らなければいけない。ますます大きさを増した影は、歩道や車道はおろか、校舎とその脇に立つ家々にさえもかかるほどになっている。
何気なくビルを見やっていて、友達は「あれっ」と思った。
ビルの敷地の内側は、ふちに沿って何本か樹が植えられているんだが、そのうちの一本の幹が途中から見えなくなっている。
厳密には、幹の途中が異様に黒く染まっているんだ。それはまるで、自分たちがいつも見ている影の色に思えたらしいんだよ。
思わず足を止めて見入る友達の前で、影らしく黒い固まりは木の幹から離れた。
投げ飛ばされたかのように真っすぐ進んだそれの先には、ビルの一階にある窓のひとつに直撃する。
影が離れた樹は、その幹が存在しなかった。きれいに中ほど数十センチをのぞかれた形になったその一本は、竹ぼうきの先を思わせるこずえを、思い切り敷地内の地面へ叩きつけてしまう。
だが、その間に。窓へひっついた影はというと、それが煙か何かのように、あっという間に身を広げて、窓の左右数十メートルを覆い隠してしまった。
見通せない。先ほどまで、その範囲内にあったはずの窓も壁も、いまやすっかり黒い影に覆われてしまって。それでいながら、わずかにでもそこから離れたビルの壁は、先と変わらない平然としたたたずまいで、そこにいる。
時間にして、わずかに数秒ほどだったろうか。
影は唐突に失せて、今度は窓や壁も戻ってきた。ビル倒壊の惨事にはならなかったものの、友達はすっかり恐れをなして、逃げ出してしまったらしい。
翌日。ちらりと耳に挟んだ話によると、あの製薬会社のビルで働いていた従業員数名が、夕方の作業中にいきなり姿を消したのだとか。
あのビルで親が働いているという生徒によると、それはちょうど友達が例の影を見た前後の時間帯。そしていずれの従業員も、影のぶつかった一階で作業をしていたという話なんだ。