エピソード96:※
——沈む。
深く、深く、どこまでも。
身体の輪郭が溶け、思考が霧散し、意識が波紋のように広がっていく。
そこにあるのは、絶対的な暗闇。
静寂が支配する世界。
けれど——
(違う)
これは、静寂ではない。
圧倒的な“無”の中で、何かが蠢いている。
鼓膜の裏側に響く、不快なざわめき。
誰かが、囁いている。
——貴女は
——貴女は
——貴女は
声は幾重にも重なり、やがて一つの音の塊となる。
それは、私自身の声。
幾千、幾万に枝分かれした私の可能性。
選ばれなかった私たち。
書庫の崩壊とともに霧散したはずの“未来”たちが、今、ここに集結している。
「……私は……」
言葉が、上手く紡げない。
それでも——
「私は、私を終わらせる」
瞬間、世界が歪む。
黒い波紋が空間を伝播し、視界のすべてを塗り潰していく。
——終焉が始まる。
足元が崩れる。
大地など、最初から存在しなかったのだ。
私が立っていた場所は、ただの“概念”に過ぎなかった。
肉体が霧散し、意識が曖昧になり、すべての“私”が混濁していく。
けれど、それでいい。
私は、“創造主”だった。
そして、私は“創造主”ではなくなる。
それが、私の選択。
「——否」
低く、鋭い声。
その声に、私は再び意識を引き戻された。
金色の瞳。
“彼女”が、そこにいた。
「貴女は、間違っている」
「……何が?」
「貴女は、“創造主”としての存在を否定した。でも、それは“終わり”ではない」
彼女の瞳が、ひどく冷たい。
「貴女が終わるということは、この世界も終わるということ。そして——」
「それは、貴女自身の存在すらも無に帰すということ」
私は、ふっと笑った。
「それの何が悪いの?」
「……」
「私はもう、役目を果たした。だから、消えるの」
彼女は、わずかに眉をひそめた。
「本当に?」
「……え?」
「本当に、それでいいの?」
彼女が手を伸ばす。
私は、それを拒まない。
指先が触れる。
瞬間——
“視えた”。
燃え盛る炎。
崩れゆく城。
血に染まった大地。
私が創った世界。
私が見届けるべきもの。
そして——
私が、まだ知らない“未来”。
(私は……)
世界が、反転する。
私が、私でなくなる。
私が選ぶべきものは——
「貴女は、まだ終わらない」
“彼女”の声が、静かに響いた。
私は、ゆっくりと目を閉じる。
「……そう、なのかもしれないね」
私は、最後の選択をする。
終わらない未来。
終わらせない未来。
螺旋の檻の、その先へ——