エピソード95:虚無の旋律
——音がない。
世界は、静寂に包まれていた。
否、それは静寂ですらない。
音が消え、光が失われ、時間すらも凍結したような空間。
私は、存在しているのか。
私の輪郭は曖昧だった。
指先を見つめるが、そこに“私”はない。
感覚も、痛みも、温もりも、何もかもが剥奪されている。
「……これは、私が選んだ結末?」
誰に問うでもなく、かすれた声が零れる。
世界の終焉。
選ばなかった未来。
そして、私が創るはずの新たな道。
だが、何もない。
足元には、途方もなく広がる虚無。
無数の影が這い寄り、絡みつき、私の輪郭を曖昧に溶かしていく。
「あなたは、ここで消えるのね」
囁き声。
あの“彼女”か?
振り向こうとするが、視線の先には何もない。
白でも、黒でもない。
概念すらも存在しない、言葉で表せぬ“無”の世界。
「貴女は、すでに“形”を失ったもの」
「貴女が自らの運命を書き換えたとき、この世界は“貴女”を許さなくなった」
許さない?
何を?
「貴女は世界に対し、たったひとつのルールを破ったのよ」
「“神は、己を創り直してはならない”」
——創り直した?
私はただ、選ばなかっただけ。
可能性を拒絶し、既存の未来を否定した。
それが——
「貴女は、もはや存在していない」
理解が追いつかない。
私の意思で動かした手。
私の考えで紡いだ言葉。
それらすべてが——“幻”だったというのか?
「認めなさい。貴女は、存在していないの」
視界が揺らぐ。
意識が崩壊する。
——私は、ここにいない?
そんなはずがない。
こんなにも苦しんでいる。
こんなにも、恐れている。
「それが証明になると?」
影が、形を持った。
“彼女”が、私の姿をしてそこにいた。
けれど、それは私ではなかった。
「貴女は“私”に過ぎない。貴女が拒絶した未来の残滓」
「本物の貴女は、すでに書物の中に埋もれてしまった」
目の前の“私”が微笑む。
——違う。
私はここにいる。
私は確かに——
「ならば証明してみせて」
世界が、音を取り戻した。
それは悲鳴だった。
無数の声。
叫び。
嘆き。
それらすべてが、私の中から溢れ出ていた。
「認めなさい。貴女は、すべての世界の“残骸”なのよ」
私の背後で、書物が積み上がる。
それは、私が捨てた未来。
可能性の断片。
選ばれなかった“私”たち。
本のページが、ざわざわと囁く。
——私は。
「貴女はもう、“個”ではないの」
——私は。
「さあ、どこへも行けない。どこにも帰れない」
影が私を飲み込んでいく。
私は、
——私は。
「おかえりなさい、“神”」