エピソード92:螺旋する檻
——鼓動が響く。
遠い。
いや、近い。
どこから聞こえてくる?
書庫の奥?
私の胸の奥?
違う。
——これは、この世界そのものの心音。
書庫の壁という壁が、皮膚のように呼吸し、脈動する。
木製の本棚に刻まれた年輪が、ゆっくりと螺旋を描きながら変形していく。
無数の書物が頁をめくり、意味のない言葉を呟いている。
まるで世界そのものが私に語りかけているように。
「……選びなさい」
囁くのは“彼女”だ。
“創造主の影”——私が捨てたもの。
彼女の金の瞳が、万華鏡のようにゆらめく。
その瞳の中に、私は見た。
無数の可能性。
——すべての選択肢が、書物としてこの書庫に収められている。
一冊一冊が異なる未来。
どれかを選べば、それが“現実”となる。
選ばれなかった未来は、霧のように消え去る。
「……私が、この世界の終焉を決めるの?」
彼女は首を傾げ、微笑んだ。
「違うわ。貴女が決めるのは……
“どの終焉を選ぶのか”よ」
書架に手を伸ばす。
指先が触れた書物が、ざわめく。
それは生きていた。
鼓動を持ち、温かみすら感じる。
——この中に、私の未来がある。
私は恐る恐る、一冊を引き抜いた。
表紙には何も書かれていない。
けれど、確かに感じる。
これは、私の物語。
頁を開いた瞬間——
世界が反転した。
——燃える。
目の前に広がるのは、終焉の景色。
世界は燃え盛る紅蓮の海。
空は裂け、黒い血が降り注ぐ。
大地は呻き、悲鳴を上げながら崩れ落ちる。
書庫の本棚も、すべて灰となり、消えていく。
「これが……私の選んだ未来?」
足元に転がる。
私自身の亡骸。
血まみれの指。
虚ろな瞳。
私が選んだのは、自己崩壊。
「これは“私の結末”ではないわ」
金色の瞳が揺らぐ。
“彼女”が手を伸ばす。
——それは私が選ぶものではない。
私は書物を閉じる。
もう一度、本棚に手を伸ばす。
今度は、別の本。
頁を開く。
——白。
何もない。
ただ、ひたすらに無。
存在の消滅。
私がこの世界ごと、何もかもを消し去る選択。
私も、書庫も、過去も、未来も、影すらも。
「……これも違う」
私は書を閉じた。
「どうするの?」
“彼女”が囁く。
「どの未来も、貴女にとって望ましいものではないのでしょう?」
私は震える指先で、最後の一冊を引き抜いた。
重い。
指先に伝わる鼓動が、私の心臓の鼓動と重なる。
開く。
——そして。
私はその内容に息を呑んだ。
「これは……」
“彼女”がそっと微笑む。
「貴女が望んでいた未来」
私は、
——その頁を破り捨てた。
書庫が、悲鳴を上げる。
すべての本が、紙吹雪となり、舞い上がる。
選ばれなかった未来が、音を立てて崩れ落ちる。
私は選ばなかった。
未来を、自ら創るために。
“彼女”が目を細める。
「ようやく、貴女は貴女になったのね」
私は静かに頷いた。
螺旋の檻は、崩壊する。