9
冷たい汗がじわりと滲む。
アクセルを踏み続けながら、バックミラーを何度も確認する。だが、そこには何も映っていない。
――見間違い? いや、確かにいた。あの黒いフードの男。
昨日も、今日も、同じ場所で。
「……ありえない。」
呟きながら、無意識に指先でハンドルを強く握る。
城の住人が地上で生活している――
再び脳裏に浮かぶ、今朝のニュース記事。ありえないと切り捨てたいのに、頭の奥で何かが引っかかっている。
そもそも、あの城の存在自体が「ありえない」ものだった。
世界のどこにも類を見ない浮遊する城。人類の科学がいくら発達しようと、いまだにその正体は解明されていない。あの城がそこにあることは当たり前のようで、決して「普通」ではなかった。
そして――もし、本当に城の住人が地上に降りているのだとしたら?
「……いや、考えすぎだ。」
無理やり自分に言い聞かせる。
信じてしまったら終わりだ。今までの「普通」が壊れてしまう。
車を駐車場に停め、深く息を吐いた。何事もなかったように家へ戻る。鍵を開け、扉を閉める。その一連の動作を、普段よりも意識しながらこなした。
リビングの電気をつけ、ソファに倒れ込む。
――いやに静かだ。
窓の外を見ると、街の灯りがぼんやりと光っている。あの城も、いつも通り夜空に浮かんでいた。
「……変わらない。」
そう思いたかった。
スマホを手に取り、何気なくニュースアプリを開く。
だが、画面に映った最新記事を見た瞬間、息が止まった。
『〇〇市で不審者の目撃情報続出――黒いフードの人物が各地で確認される』
「……え?」
記事には、私が今日目撃したものとそっくりな情報が並んでいた。
黒いフードを被り、無言で立ち尽くす人物。じっと人を見つめるような仕草。だが、それ以上の行動はしていない。何も話さず、何も触れず、ただそこにいるだけ。
そして、目撃された場所は決まって城がよく見える地点だった。
――これは、偶然?
記事をスクロールする手が震える。
コメント欄を見ると、「自分も見た」という報告が相次いでいた。
「仕事帰りに見かけた。動かないし、気味が悪い」
「家の近くにいたんだけど……まじで不気味」
「誰かのいたずら? でも数が多すぎないか?」
数が、多すぎる?
記事をよく見ると、目撃情報は私の住む地域だけではなかった。市内の至るところで、黒いフードの人物が確認されていたのだ。
「……どうなってるの、これ。」
思わず呟く。
この奇妙な状況を、ただの偶然と片付けるには無理があった。
誰かが仕組んだ悪質なイタズラ? それとも……本当に、「城の住人」が地上に降りてきた?
いや、そんなことはない。
そう否定したいのに、胸の奥で冷たい感覚が広がっていく。
――もし、あの城と地上が何らかの形で「つながり」始めているのだとしたら?
これまで何百年も静かに浮かび続けていた城が、今になって動き出そうとしているのだとしたら?
スマホを持つ手に力が入る。
その時――
「カタン」
どこかで、小さな音がした。
鼓動が一瞬で跳ね上がる。
音の方向を見る。玄関のドア。
気のせいかもしれない。だが、さっき確かに聞こえた。
息を殺し、耳を澄ます。
……何も聞こえない。
ほっと胸を撫で下ろそうとした、その時だった。
「コン、コン。」
――ノックの音。
背筋が凍りつく。
まさか。こんな時間に? 誰が?
不安を抑えながら、スマホを握りしめる。
「……誰?」
意を決して声をかける。
返事はない。
ただ、もう一度――
「コン、コン。」
規則的な、静かなノックの音だけが響いた。