エピソード89:黄昏の刻印
——世界が軋んだ。
血のように赤い空。
黒くひび割れた大地。
風が吹くたび、影が揺らめき、悲鳴のような音を立てる。
大蛇はいなかったのだ。最初から。
私は立っている。
シラーチルも、そこにいる。
けれど——
「……もう、限界ね」
シラーチルの唇が、わずかに震える。
指先は白く、氷のように冷たい。
彼女の身体は、崩れ始めていた。
足元から細かな粒子が剥がれ、風に溶けていく。
一片、また一片。
指をすり抜ける砂のように。
私は、シラーチルの手を取った。
「……だめよ」
彼女は、小さく微笑む。
どこか寂しそうに——どこか、懐かしそうに。
「あなたは、本当に優しいわね」
冷たい指が、私の頬を撫でる。
その仕草は、まるで別れを告げる恋人のようだった。
「でも、これは約束された結末なの」
世界が歪む。
空間がひび割れ、闇が押し寄せる。
私は、知っていた。
この瞬間を。
この運命を。
シラーチルは、最初から“この役割”だったのだ。
彼女は、“門”だった。
私を“向こう側”へ導くための、“鍵”だった。
彼女がいなければ、私はここまで来られなかった。
だけど——
「シラーチル……」
その名を呼ぶたび、彼女の輪郭が薄れていく。
「あなたのこと、愛していたわ」
彼女は、囁く。
涙の代わりに、光の粒子が頬を伝い、空へ溶けていく。
「だから、私を忘れないで」
私は、彼女の手を強く握った。
けれど、それはもう、砂のように崩れていく。
「待って」
声にならない声。
震える唇。
だけど、どうしようもない。
「……大丈夫」
シラーチルは、最後に微笑んだ。
そして——
彼女は、風と共に消えた。
——静寂。
何もない世界。
赤い空。
黒い大地。
私は、一人。
「…………シラーチル」
呼んでも、返事はない。
風が吹き、空が揺らぎ、私の影だけがそこにある。
そうだ。
最初から、最後まで——
私は、“一人”だったのだ。
鐘の音が、遠くで響く。